上田創造館で上田地域の養蚕業や農家の暮らしについて知る
★クリップ土間と囲炉裏のある広間が中心だった。炊事は土間のかまど(へすい、へっつい)で行い、囲炉裏の周りは家事と家族団らんの場であり、寝室は億の北側の部屋で、おへや、ねどこなどと呼ばれていた。
奥の南側の座敷をはじめ居間までが蚕室として使われる場合が多く、代や蚕棚が設けられた。間仕切りが壁ではなく、建具だけなので、取り外せば広い蚕室にすることができるためだった。養蚕の最盛期には寝室まで蚕室にしたので、人は蚕室の間に寝るという、おかいこさま優先の暮らしだった。
商家は営業の場である見世があり、その奥が居住の場となっていて、職住一体の構造だった。
呉服商の見世には帳台が置かれ、その奥に縮緬、紬などの絹織物、メリンスなどの毛織物、太物(木綿類)などの反物や帯を納める商品収容棚があり、伊達衿、帯揚、足袋などの小物類は土間に設けられた台に並べられ営まれていた。夜遅くまで店は開けられていて、笠つきの白熱電燈が何本も天井から吊り下がり、畳敷きの座売りの店内を明るく照らした。
鍛冶職人を集めて住まわせた上田の鍛冶町では、1706年の記録によると、32軒の鍛冶屋があった。それが、明治末には半数以下に減少してきた。
一人前の鍛冶職人になるためには、親方のところに弟子入りして、一定の年季をかけて修行した。これを徒弟制度といいい、親方は弟子に厳しく技を仕込んだ。
鍛冶町の鍛冶屋では、桑こき、稲こきや馬耕用の犂先なども生産したが、回して開ける柏錠もよく作られた。
当時の町や村には、それぞれ必ず1軒か2軒の鍛冶屋があった。
そこでは、鍬、鋤、鎌などの農具や斧、蛇包丁などの日用品がつくられていた。この鍛冶屋は、野鍛冶ともいっていた。
鍛冶屋では、新しいものをつくるだけでなく、古くなって刃の減ったものを鍛えなおして再び使えるようにする先掛けも行っていた。
鍛冶屋で何度も再生された鉄製品を当時の人は最後まで大切に使った。
木炭で炊く炊飯器。大正から昭和初期に一部の大きな料理屋等で使用された。現在も販売されている。
使い方は、木炭に着火して中に羽釜を入れる。炊き上がったら、上の穴に蓋(紛失)をして漏らす。美味しいご飯が食べるということで今でもお寿司屋さんやうなぎ屋さんで使っている店もあるという。
紺木綿で作った麺入れはんてんで冬の山仕事の防寒着です 。仕事に限らず、広く野良仕事着として使われました。
真綿から紬に用いる糸を紡ぐ時に使う。いとでに真綿を巻き付け、ひっぱりながら糸を紡ぎ出す。