上田藩主松平氏と関係のあるスポットへ行き、自身の感じたことを記事に上げる。私の記事を読んで、少しでも上田の松平氏に興味を持ったり、その場所を訪れたりしてくれたら、嬉しい。
★クリップ 上田城南側に切り立つ崖の下段には、横に長く敷き詰められた石垣がある。この石垣は、松平忠愛(ただざね)が築造したものだ。享保17年(1732)に大雨で増水した千曲川がこの崖面を大きく削ったため、護岸工事を行ったそうだ。(戌の満水)
上田城南側の芝生広場を訪れた際に感じてほしいのは、江戸時代にはその地に広場はなく、尼が淵という千曲川の分流が流れていたということだ。そのため、崖面を見ることができている我々は貴重な体験をしている。そして、下段の石垣は強固に見えるが、敵が登ってくるのをを防ぐために築かれたのではないことも知ってほしい。
二度の上田合戦や大坂の陣で名を轟かせた真田氏の居城であったからこそ、忠愛は、南櫓、西櫓を崩れささせたくなかったのだろうと私は思った。
これは歴代の上田藩主が住んでいた居館の表門である。寛政1年(1789)にこの門と居館は全焼したが、松平忠済(ただまさ)が翌年に再建させている。
瓦屋根の軒の両端を見てほしい。上田藩松平家の家紋「五三の桐紋」があしらわれた瓦が取り付けられている。屋根の棟板金を見てほしい。ここにもまた家紋の飾りが2つ取り付けられている。家紋の瓦からは、この門が持つ格式の高さが感じられる。門の両側には、白い塀がずらっと続いている。何だか「居館」というよりも「お寺」のイメージを彷彿とさせる。軒下には雨樋が付いている。化合した金属で作られたものだろう。江戸時代だったら、木材や竹で雨樋を作っただろうから、この樋は最近のものだろう。
門だけでなく雨樋や塀、屋根の状態などを見ると面白いだろう。
この場所にはかつて、松平忠学(たださと)の命によって設立された明倫堂があった。ここで、上田藩の多くの若者が文武教育を受けた。
私が散策したところ、この学校(現在は上田市立第三中学校となっている。)は3種類の石垣によって囲まれているのが分かった。左から二つ目の石垣は、横に長く敷き詰められており、一枚一枚はの厚さは薄く、どれも四角形であった。左から三つ目の石垣と一番右の石垣を比べると、左の石垣は、全体的に白く、配列がきれいである。それに対し右の石垣は、全体的に黒いけれども青、赤、黄などの色の石もあり、また、上にいけばいくほど石の大きさが小さくなっている。配列が乱れている箇所もある。
おそらく左から二番目の石垣は今日に近しい時代に、一番右の石垣は古い時代に積まれたものだろう。このように、明倫堂跡地では3種類の石垣を楽しむことができた。
信濃国分寺本堂には、上田松平氏の「五三の桐」が描かれた垂れ幕と提灯が掛けられている。上田市立博物館が発行した『松平氏史料展』によると、松平忠周(ただちか)はそれまで損傷していた信濃国分寺の三重塔を、享保11年(1726)3月8日に修復したと書いてある。修復された当時の状態のまま今日まで残されているかどうかはわからない。だが、忠周が三重塔を今見えている形状に正したのは確かだろう。なお、忠周だけでなく、仙石氏や、その後の松平藩主も国分寺を保護・援助している。
私は実際に塔を見てみて、三重の屋根は青銅で葺かれているのではないかと思った。その青緑色と塔の木材部分の茶色の組み合わせは綺麗だった。また、塔のすぐそばには池がある。池側から三重塔を見ると、池の大きさはかなり違うけれど、京都府木津川市にある浄瑠璃寺の三重塔と池のツーショット画像を思い出す。信濃国分寺の境内は蓮の葉や花に彩られている。浄瑠璃寺には池泉回遊の浄土式庭園がある。極楽浄土への祈りや憧れがあったという点が両者には共通していて、だから池と三重塔の空間が似ているのではないか、と私は思う。ぜひ比較してみてほしい。
https://www.pref.kyoto.jp/kyotoyamashiro/treasure_3.html 京都府. 山城地域の国宝(浄瑠璃寺)/京都やましろ観光.
上田を治めた松平氏にゆかりのあるスポットを載せたマップを作製した。今まで紹介してきた記事に加え、4つのスポットをマップに加えた。
信濃国分寺の三重塔修復で紹介した松平忠周であるが、彼は正徳2年(1712)5月に山家神社の社殿を、正徳4年(1714)8月には紺屋町八幡神社の社殿も修復している(ただ、どちらの修復も三重塔修復より前の時代になる)。上田に引っ越してきて間もない忠周は、古くから上田住民の心の拠り所となってきた上記の神社仏閣を修復することで、上田領民の信用・信頼を得ようとしたのではないか、と私は考える。加えて、これから先、領内で天災や大きな事件が起こらないように、と土着の神仏に願かけをする気持ちもあったと思う。
山家神社であるが、額縁の『山家神社』という字は、上田最後の藩主で、知藩事の松平忠礼が自筆したものである。願行寺は、全国に数か所ある藤井松平家の墓所の一つである。眞田神社は、今は真田氏と仙石氏も祀っているが、もともとは、藤井松平氏の先祖を祀る松平(しょうへい)神社であった。
あまり知られていない上田の松平氏であるが、このように探求してみると、ゆかりのあるスポットが上田の地にたくさんあることが分かった。徳川家康の遠い親戚であるので、大河ドラマ『どうする家康』を見て松平氏に興味を持った人、「もともと興味を持っているよ」という人はぜひ周ってみてほしい。
下の画像:ミッチーの画像を引用
上田市中央にある願行寺の松平氏の墓所を訪れた。写真に見えるのは、四角い石碑を外して、右手側から、上田藩6代藩主の松平忠優(ただます)またの名を忠固(ただかた)、4代藩主の松平忠済、そして忠済の嫡男で20歳くらいで若くして亡くなった忠英(ただつね)の墓である。この記事では、松平忠固の功績を取り上げたい。
忠固を一言で表すとすれば、幕府の体制を、開国つまり外国と貿易を始めるよう向かわせた人物である(オランダ、中国、朝鮮は入らない)。なぜか。忠固は二度、幕府の中枢つまり幕閣で老中という役職を務めている。そして、忠固の一度目の就任期間時には、幕府は日米和親条約を締結し、二度目の就任期間時には、幕府は日米修好通商条約を締結している。忠固は開国派の立場を取っており、外国との貿易は必要であると懸命に幕閣の人物たちへと訴えかけた。しかも、天皇の許可を得ずとも幕府だけで条約に調印してもいいと言うのである。日米修好通商条約を調印したのは井伊直弼であるが、「天皇の許しをもらわずとも幕府だけですぐにでも調印するべきだ」と声を上げて果敢に訴えたのは忠固なのである。水戸徳川家の徳川斉昭と激しく対立したり、井伊直弼に条約調印を迫ったりと、格式の高い者たちに臆せず立ち向かったその姿は評価すべきである。上田にはそのような偉人がいたのである。ここでは、上田市立図書館の地域資料室で調べた内容を挙げた。
「従四位下」の位を授かったのは、初代藩主で二度側用人に登用された忠周と、この忠固だけである。それ以外の藩主は皆「従五位下」である。上記の2名に共通しているのは幕閣で働いた点である。忠固の墓碑に刻まれている「故従四位下行侍従兼伊賀守上田源公髪歯之冢」という文言を少しは理解できた気がする。