| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 | | 自由大学資料デジタル化作業 | 12月3日に長野大学附属図書館に展示されている上田自由大学の資料をデジタル化するお手伝いをさせていただきました。撮影をする際、アクリル板を使って日光や部屋の照明に気をつけながら資料がきれいに写るように工夫しました。デジタル化した資料は後日公開される予定です。 | 2021-12-03 |
2 | | じまんやきの歴史と比較 | 引用 「あんこ」と「カスタードクリーム」どちらがお好き?「じまんやき」の「富士アイス」 ~上田市海野町商店街6~
https://blog.nagano-ken.jp/wp/josho/wp-content/uploads/2015/09/20fuji2.jpg
じまんやきは上田市のソウルフードの1つになっている。
じまんやきは海野町商店街の一角の富士アイスで売られている。じまんやきを作っている富士アイスの本店は山梨県甲府市に本店を置いている。富士アイス上田店は昭和10年に開業し、長野県で一番古参の店になっている。富士アイスは創業当初は富士屋という店名だった。富士アイスの富士は日本一の山を自慢している富士山に由来する。
次にじまんやきについて解説します。じまんやきは「自慢の味。自慢したくなる味。」から由来しています。
じまんやきは1個80円とリーズナブルな価格であり、太鼓上に | 2022-01-27 |
3 | | 私の課題探求 | なぜその探求テーマを選んだのか
テーマを考える最中、上田紬のイベントが最近あったことを思い出したことがきっかけだ。またメンバー全員が服が好きということもあって上田紬に興味関心があったためこのテーマに設定した。
何を探求しアウトプットするのか
上田紬の歴史や庶民的なものから高級品に変化するまでの過程を調べ、どのようにしたら現代の若者にとって身近になるかを考える。
具体的にどのような資料を調べるのか
インターネットのサイトや可能であれば上田紬の工房に足を運び実物を実際に見てみる。また先生から送って頂いた上田市立博物館図録を参照する。 | 2022-01-27 |
4 | | 上田紬について① | 〇紬とは
紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のこと。 絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面で独特の風合いがある。 丈夫で軽く、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物で、最初はかっちりとした着心地ですが、着慣れるほどに柔らかく馴染んできます。簡単に言うと、糸を先に染めたあとに布を織る絹織物でかつ、カジュアル
用のきもののことです。
〇上田紬の魅力
目の細かい糸使いでしっかりと織り込まれていて丈夫で強い。縞・格子柄が多く、 シンプルで飽きのこないデザインで江戸時代から織り継がれている。また、大島紬や結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られ、紬の中でも軽くて丈夫なことから全国で広く愛用されてきた。
〇上田紬の歴史
今から | 2022-01-27 |
5 | | 富士山研究 | 「富士山の“世界遺産登録までの歩み”と“これから”」
入月龍輝
黒田蒼士
日本人の自然観や日本文化に大きな影響を与えてきた富士山は2013年に「信仰の対象と芸術の源泉」として、世界文化遺産に登録された。
―世界遺産登録までの歩みー
富士山を世界遺産とする動きは1992年からスタートしている。その後も静岡・山梨両県が、衆参議院に富士山を世界遺産として推薦していった。しかし、2003年国の検討会が最終候補地を選定した際、富士山が狭い遺産候補から外れる。そのため、世界文化遺産登録を目指し活動することになる。2007年に文化庁が日本の世界文化遺産 暫定リスト 追加候補遺産に選定する。最終的に2013年第37回世界遺産委員会にて世界遺産登録決定となる。
このように世界遺産登録までに約20年かかったおり、一筋縄 | 2022-01-27 |
6 | | 現代用語の基礎知識(『西塩田青年団報』第33号(1949年12月20日)1頁) | その名の通り、現代日本において知られるようになってきた用語を紹介している。外来語についても紹介している。
今の私たちにとっては身近な言葉も、こうして徐々に浸透していったんだということがわかり、面白いと感じた。 | 2022-01-27 |
7 | | 運動服調達 決算について(『西塩田青年団報』第32号(1949年11月20日)1頁) | 学校の野球・排球用のユニフォーム調達のための寄附結果を掲載、お礼している記事。
スポーツに対する協力体制が感じられ、スポーツが村民にとっても娯楽的に親しまれていることがわかった。 | 2022-01-27 |
8 | | 新憲法とポツダム宣言(『西塩田青年団報』第5号(1947年5月20日)2頁) | 明治憲法(大日本帝国憲法)が改正されたのは、憲法をポツダム宣言に沿う内容にしなくてはならなかったからだと主張している記事。改正後の憲法がポツダム宣言に準じているということを、実際にそれぞれの条文を比べることで示している。
日本を愛する人民として、新憲法とポツダム宣言は理解しておくべきだという主張が、当時の政治への意欲を表しているように感じた。 | 2022-01-27 |
9 | | 拔け切れぬ弊習 村議戰を顧みて(『西塩田青年団報』第5号(1947年5月20日)1頁) | 記事発行以前に行われた村議員選挙において、それがいかに非民主的なものだったかということを痛烈に批判している記事。後ろ盾の無い民主団体や個人は不利な状態に立たされ、女性の候補者も一人も現れなかったという状況を、封建的なかつての選挙と変わらないと言っている。
戦前や戦時中ではこのような政治に対する批判は絶対にできなかったと思うので、自らの意見を自由に発信できる時代の訪れを感じた。 | 2022-01-27 |
10 | | 働くものが幸福になる!民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁) | これから選挙に臨む村民達に、勤勉に働く者が損をしないような社会を作るべく考えて投票を行うことを促している記事。
そのために、どのように投票するのがいいのかを解説しているのがわかりやすく、政治に疎い読み手のことを考えているな、と思う一方、現代では自由な投票を歪める可能性があるのであまり推奨されることではないようにも思う。また、女性の選挙権を求める記事も同時掲載しているのが、差別撤廃を目指す時代性を表していると感じる。 | 2022-01-27 |
11 | | スポーツ欄(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)4頁) | 地域の野球・卓球の体育祭典のリザルトを掲示した記事。
戦前ではスポーツをやる余裕など無かっただろうと思うが、こうして大会が開けるまでに平和が戻ってきたということを表す、微笑ましい記事だと感じた。 | 2022-01-27 |
12 | | 民主苦言(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁) | 農村の民主化政策に対して消極的、反動的な意見を排除して意欲的に民主化を進めようと呼びかけた記事。
GHQを中心とした国内改革の成果が見られる記事であるように感じた。 | 2022-01-27 |
13 | | 英靈故山に還る(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)1頁) | 戦死した五名の男子。その名前と戦死日時、場所が中央に大きく書かれていた。
この記事における「英靈」とは死者、特に戦死者の霊を敬って言う語を意味していると思われ、「故山」とは彼らの故郷。
つまり、故郷に遺体という形ではあるが再び還ってきた五名の霊を追悼しよう、という心がけが見受けられる。
国のために命を捧げて死ぬのは美徳であり、仕方ないことだという戦前の考え方が薄れてきているようにも思えた。 | 2022-01-27 |
14 | | 上田電鉄株式会社の沿革 | ・大正5年9月17日 丸子鉄道株式会社 設立
・大正9年1月5日 上田温泉軌道株式会社 設立
・昭和14年8月30日 商号変更 上田電鉄株式会社
・昭和18年10月21日 丸子鉄道株式会社と上田電鉄株式会社合併(商号 上田丸子電鉄株式会社)
・昭和44年5月31日 上田丸子電鉄株式会社を上田交通株式会社に商号変更
・昭和47年6年30日 城下駅を無人化
・昭和47年7月7日 中塩田駅を無人化
・昭和61年9月30日 上田原駅無人化
・平成17年10月3日 上田交通株式会社より分社 上田電鉄株式会社 設立
このように、上田電鉄株式会社は路線の縮小などにより会社規模を小さくしたり、子会社を合併したりと時代によって進化してきた。現在は東急グループの傘下に入っている。
[参考文献・写真]
上田電鉄株式会社ホームページ
https://www.uedadentetsu.com/ | 2022-01-27 |
15 | | イナゴ入手方法! | 昔に比べて少なくなってきたイナゴ。
すぐに食べたい人必見手に入れられる場所を紹介します!
〈上田地域〉
・道の駅
・上田駅(画像は上田駅で売られているものです)
・ツルヤ
・BIG
〈その他売られている県〉
・群馬などの内陸地
・茨城・東京
・新潟(イナゴソフトが販売) | 2022-01-27 |
16 | | 別所線の今と昔の比較(3) | 1978年に撮影された上田原駅の写真です。下之郷に移転する前まで、上田原駅には上田線の電車全部が集まる車庫がありました。
昔の中小私鉄の車庫には、足回りを外され置き去りにされた車両がゴロゴロ存在していたそうです。
中にはとんでもない珍品も存在したとか…
[参考文献・写真]
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/19781230-c1c7.html | 2022-01-27 |
17 | | ため池の工事 | 江戸時代の塩田のため池の工事は、元は小さな池を広げることから始まったそうです。「塩沼という小さな池だったのを、村人が殿様(仙石忠政)に願い出て、元禄12年(1702年)に大きな池にする工事が行われ、塩吹池は東西194メートル、南北212メートルの大きなため池になりました。このような大きな工事の費用は上田藩が出しました。」引用ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館(2022/01/26閲覧)とあるように大規模な工事であったことがうかがえます。このような大規模な工事を経て、今私たちが住んでいる塩田平の風景が形成され、この土地に住む人々を助けています。
参考:ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館 | 2022-01-26 |
18 | | 別所線の今と昔の比較(2) | これは1978年に撮影された下之郷駅の写真です。この画像の頃は、上田線と西丸子線の分岐地点としての役割を果たしていました。しかし、今現在電車は通っていませんが、西丸子線ホームは残っているそうです。
[参考文献・写真]
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/1978814-c335.html | 2022-01-27 |
19 | | 上田地域の地形概要 | 上田地域の地形は、太郎山や小牧山に囲まれたほぼ三角形の盆地地形となっており、「上田盆地」とも言われている。上田盆地の標高は約400~500メートルである。
市内には、千曲川が流れているが、地殻変動によって湖水が干上がり、千曲川が流れるようになった。
市の中心市街地は、千曲川沿いの低平地に立地している。その低平地のなかでも、千曲川沿いに千曲川河床から比べて、数m~数十m程度の急な崖も存在しており、その崖の上に上田城跡、市役所、学校などが立地している。低平地と言えど、少し離れただけで急な崖となっている、上田地域の特徴的な地形であると言える。
参考文献
・上田地域千曲川自然電子図鑑 上田地域の地形・地質
・ | 2022-01-26 |
20 | | 別所線の今と昔の比較(1) | この写真は1927年に開通された北東線上田の公園前駅を写したものです。現在は、上田城跡公園のけやき並木となっています。
[参考文献・写真]
上田市ホームページhttps://www.city.ueda.nagano.jp/site/besshosen/5563.html | 2022-01-27 |
21 | | 満州移民② | こちらの記事は先ほど紹介した小林信悟さんの満州での生活を記したものである。
これを見る限り、渡った先では農耕班として農業をしており、食事に関しても毎日白いお米を食べることができたり、週一でカレーを食べていたりと充実しているように見えた。休日に関しては、月に2~3回と現代と比べればとても少なく感じた。こちらの資料も実際の生活状況が伺える貴重な資料であると感じた。 | 2022-01-27 |
22 | | 満州移民① | こちらの記事は満州移民として満州へ行った小林信悟さんの話についてである。
当時長野県から満州移民として満州と渡った人数が約31000人で一位だという。第二位の山形県が15000人弱であるからダントツのトップである。
この記事ではここ上田から満州とへの経路で起きた出来事が詳細に語られている。このような詳細な資料は現在体験された方が減少していっているため非常に貴重な資料であると感じるとともに、その生々しさがひしひしと伝わってきた。 | 2022-01-27 |
23 | | ため池がもたらしたもの | 塩田平のため池は、平安時代の条里制の地割りが残っているため、平安時代からため池があったことが推測されますが、史料が残っていません。そこから、江戸時代から盛んに開発がされました。すると、ため池を得た塩田平の農地は、生産量を伸ばし、結果として、上田藩の約半分を占める石高を残し、「塩田3万石」ともいわれるようになりました。それらは今でも塩田を潤しています。
参考:ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館 | 2022-01-26 |
24 | | 上田ぶたひつじ | 上田駅お城口から徒歩5分のところにあるジンギスカン・サムギョプサル専門店です!
他にも韓国料理などがたくさんあり、とても美味しかったです(^^♪ | 2022-01-27 |
25 | | ため池の必要性 | そもそもなぜ塩田平にはため池が必要だったのでしょうか。それは、全国でも有数の寡雨地域であったからです。雨が少なく年間の降水量は890mmであり、稲作をするときに必要と言われる降水量である1000mmを下回ります。そのため、稲作をするためには厳しい土地でした。幸い、土壌は元々塩田平は湖であったことなどから肥沃だったため、水が足りないという課題を灌漑で解決すれば稲作ができました。用水路を使った灌漑などが長野では多いですが、塩田平を流れる川は、どれもたくさんの農地を潤すほどの水量はありませんでした。そこで、塩田平ではため池灌漑という長野県では珍しい灌漑方法がとられています。
参考:ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
| 2022-01-26 |
26 | | 家庭生活の民主化から | この記事では終戦後の民主化政策に困惑する女性の意見を知ることができる。男性よりも女性が教育を受ける機会が少なかった当時の状況で「男女同権」を主張する民主主義に対して女性にはあまり受け入れられなかったようだ。
『西塩田青年男報』第5号(1946年12月25日)第一頁より | 2022-01-27 |
27 | | Cafe bosso | 上田駅お城口から徒歩5分のところにあるカフェです。
外観・店内共にオシャレな空間でした(^^) | 2022-01-26 |
28 | | 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~ | 古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以 | 2022-01-26 |
29 | | 上田紬とは | 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のことである。
上田紬は大島紬・結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られている。
絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面が独特の風合いを醸し出している。
作り手の減少により希少価値が高まっているが丈夫で軽く、値段に関係なく基本的には街着の扱いとされている。そのため、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物。
参考文献
https://docs.google.com/document/d/1xn4eb17SZiy6jdQkwIaHX_4cSMqIi7j1lhCLMud9r7s/edit
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/5580.html
https://ichiri-mall.jp/shop/c/cAB/#:~:text=%E7%B4%AC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%AC%E7%B3%B8%E3%82%92,%E3%81%AB%E6%9F%94%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%8F%E9%A6%B4%E6%9F%93%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
https://www.city.ueda.nagano.jp/s | 2022-01-26 |
30 | | 上田紬とは | 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のことである。
上田紬は大島紬・結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られている。
絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面が独特の風合いを醸し出している。
作り手の減少により希少価値が高まっているが丈夫で軽く、値段に関係なく基本的には街着の扱いとされている。そのため、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物。
参考文献
https://docs.google.com/document/d/1xn4eb17SZiy6jdQkwIaHX_4cSMqIi7j1lhCLMud9r7s/edit
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/5580.html
https://ichiri-mall.jp/shop/c/cAB/#:~:text=%E7%B4%AC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%AC%E7%B3%B8%E3%82%92,%E3%81%AB%E6%9F%94%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%8F%E9%A6%B4%E6%9F%93%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
https://www.city.ueda.nagano.jp/s | 2022-01-26 |
31 | | 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~ | 古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以 | 2022-01-26 |
32 | | 上田紬について | なぜその探求テーマを選んだのか
テーマを考える最中、上田紬のイベントが最近あったことを思い出したことがきっかけだ。またメンバー全員が服が好きということもあって上田紬に興味関心があったためこのテーマに設定した。
何を探求しアウトプットするのか
上田紬の歴史や庶民的なものから高級品に変化するまでの過程を調べ、どのようにしたら現代の若者にとって身近になるかを考える。
具体的にどのような資料を調べるのか
インターネットのサイトや可能であれば上田紬の工房に足を運び実物を実際に見てみる。また先生から送って頂いた上田市立博物館図録を参照する。 | 2022-01-26 |
33 | | 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~ | 古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以 | 2022-01-26 |
34 | | 上田紬とは | 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のことである。
上田紬は大島紬・結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られている。
絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面が独特の風合いを醸し出している。
作り手の減少により希少価値が高まっているが丈夫で軽く、値段に関係なく基本的には街着の扱いとされている。そのため、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物。
参考文献
https://docs.google.com/document/d/1xn4eb17SZiy6jdQkwIaHX_4cSMqIi7j1lhCLMud9r7s/edit
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/5580.html
https://ichiri-mall.jp/shop/c/cAB/#:~:text=%E7%B4%AC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%AC%E7%B3%B8%E3%82%92,%E3%81%AB%E6%9F%94%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%8F%E9%A6%B4%E6%9F%93%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
https://www.city.ueda.nagano.jp | 2022-01-26 |
35 | | 石湯(いしゆ)真田幸村公隠しの湯について | 石湯は真田幸村公隠しの湯とも言われています。
大河小説「真田太平記」に、別所の湯がしばしば登場します。
物語の仲で重要な位置を占める向井佐平次が真田幸村と初めて逢うのも、その幸村が女忍者の、お江(こう)と結ばれるのも別所の岩の間から湧きだす温泉の白い湯気の中だったそうです。
そして、関ヶ原の合戦には真田の忍者草の者達が、別所の里に身を潜めて上田城に篭城する昌幸親子をじっと見守っていたそうです。
今も豊かに岩の間から湧きだす温泉の石湯は真田氏にとって真田氏にとって大切な隠し湯だったそうです。
その前に建つ「真田幸村公隠しの湯」の票石は真田太平記の作者、池波正太郎氏の筆の物だそうです。 | 2022-01-26 |
36 | | 飲泉搭について | 3か所の外湯の近くには引用専用の「飲泉搭」があります。
飲泉搭は
石湯前、北向観音参道、大湯前の3つありました。
1つ目の石湯前の飲泉搭には「真田幸村公 隠しの湯
2つ目の北向観音参道には「慈覚大師之湯」
3つ目の大湯前には「木曽義仲ゆかりの葵の湯」
と書かれていました。
飲泉搭の横には注意書きがあり以下のようにあります
・温泉飲用の1回の量は一般に100〜150ml程度とし、その1日の量は200〜500mlまで
・食前30分~1時間がよい
・夕食後から就寝前の飲用はなるべく避ける
・15歳以下の方は原則的に飲用は避ける
実際に飲んでみると少し熱くて硫黄の匂いがしてゆで卵を食べているような気分になりました。
適量飲むことで健康にもいいそうです。
糖尿病、痛風、便秘などの効果も期待できるそうです。 | 2022-01-26 |
37 | | 明治・大正期における上田の金融の歴史について -中間報告- | 「明治・大正期における上田の金融の歴史」について探究しています。pdfはその途中までの内容が書かれています。 | 2022-01-26 |
38 | | 上田紬について | なぜその探求テーマを選んだのか
テーマを考える最中、上田紬のイベントが最近あったことを思い出したことがきっかけだ。またメンバー全員が服が好きということもあって上田紬に興味関心があったためこのテーマに設定した。
何を探求しアウトプットするのか
上田紬の歴史や庶民的なものから高級品に変化するまでの過程を調べ、どのようにしたら現代の若者にとって身近になるかを考える。
具体的にどのような資料を調べるのか
インターネットのサイトや可能であれば上田紬の工房に足を運び実物を実際に見てみる。また先生から送って頂いた上田市立博物館図録を参照する。 | 2022-01-26 |
39 | | 小島大池(こじまおおいけ) | 小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。
下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。
騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。
なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。
なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工 | 2022-01-26 |
40 | | 空池(からいけ) | 空池は、1734年5月に西前山の庄屋児玉伝兵衛がため池を造る許可を上田藩に願い出たことで作られた。1737年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が動員され、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出された。
しかし、水が思うようにたまらず1736年4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、1737年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまった。
現在は公民館と付近の畑が池の跡地である。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php | 2022-01-26 |
41 | | 手洗池(てあらいけ) | 手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。
昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。
ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談した | 2022-01-26 |
42 | | 山田池(やまだいけ) | 山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。
池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。
この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
43 | | ため池の歴史③ | この資料から、塩田のため池がいつ頃造られたものなのか読み取ることが出来る。
真田氏の時代(1622年まで)には、山田池、舌喰池、小島池、甲田池などの広大な池が修造築または新築された。
そして、仙石氏の時代(1706年まで)には、手洗池、上原池、上窪池、山田新池などが造られた。この時代は、どの大名も領内の新田開発に力を入れた時代であるため、仙石氏もため池の築造・修造に力を入れたことが分かる。
松平氏の時代(1867年まで)に造られたため池は小さいことが見受けられるが、この時代のため池政策は、従来のため池の堤塘の高さを増し、貯蓄量を増大させるものであったからである。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
44 | | 上田映劇の内装 | 上田映劇は映画撮影やライブなどに合わせて一部改装されたりしているそうだが、建物自体は大正6年に建築されてから変わっていないため、歴史を感じる事が出来る建物となっている。
2014年に上映された「晴天の霹靂」のメイン舞台となっていたため、入り口には雷門ホールと看板が立てられたりしていた時期もあった。しかし、あくまで映画のセットとして付けられたものということもあり、耐久性が高くなく昨年撤去されたのこと。
上田の市街地に建てられていることもあり建物の横幅が広くないため、外側から建物を見ても建物自体が大きく見えない。だが、奥行きのある建物となっているため、シアターに入ってみるとシアター内の広さに驚かされる。
シアター内は一階と二階の二つに分かれているが、現在は安全上の問題で一階のみ利用可 | 2022-01-26 |
45 | | ため池の歴史② | ため池は農業用水を確保するためだけに使われていたと思っていたが、歴史を遡るとそれ以外にも利用されてきた歴史があった。
例として挙げられるのは食用鯉の養殖である。塩田地域のため池は水温が高く、養蚕が盛んであったことから、鯉の餌としてたんぱく質の豊富な蚕の蛹が多く採れた。このような地域特徴から鯉の養殖に使われてたが、1980年代末には鯉の養殖は衰退し、今はフナの養殖に非常に少数のため池が使われているだけである。
〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続
https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf | 2022-01-26 |
46 | | ため池の数 | 塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。
昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。
塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php | 2022-01-26 |
47 | | ため池の歴史① | 塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。
〈参考文献〉
信州上田の里 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
48 | | 上田映劇の歴史 昭和まで | 1917年に末広座跡に上田劇場が開館した。
当時は芝居、落語、講談、浪曲、歌謡などが催された。
上田劇場の前身となるのは末広座だが、末広座の開館日は不明である。
しかし、1912年の上田町地図に末広座、中村座が載っているとのことから
1912年以前に開館されていたと思われる。
1922年に発行された「上田市街明細図」に上田劇場、上田電機館、中村座が載っている。
1919年に「上田演芸館」というのも開館されたとされているが
詳しい場所の情報が無いため、上田市街明細図から探し出すことが困難だった。
昭和初期(1926~1932?)頃に上映するものを映画中心とし、
上田映画劇場と名称を変更。
1960年代後半 映画の人気がピークに至る。
1964年 桟敷(さじき)席から現在の椅子席(270席)に改築された。
映画館の話題から少 | 2022-01-26 |
49 | | 信州大学繊維学部講堂(旧上田蚕糸専門学校講堂) | 当時の上田は、高品質な蚕種・生糸の生産と、三吉米熊らによる人材育成により、近代日本の主要産業であった蚕糸業の発展に大きく貢献し、「蚕都上田」と称された。
この講堂ほとんど改変を受けることなく建築当初の姿を残しており、現存する近代の中・高等教育施設の建造物としては屈指のものだ。 | 2023-05-01 |
50 | | 上田紬に「興味を持ってもらう」 | 上田紬に興味を持ってもらうために、「上田紬を軸とした旅行プラン」を提案します。
・新幹線代(出発地が北陸新幹線沿線の場合)+着付け代(ゆたかやさんに依頼)(+宿泊の場合ホテル代)を込みにしたプラン
・紬割:対象店舗・スポットに紬姿で行くと割引などのサービスを受けられるようにする。旅行客に「上田紬でめぐる」おすすめスポットを載せた地図をプレゼントし、掲載地が紬割対象。地図は上田駅・上田城周辺、別所温泉を中心に作成。
・オプションとして+1000円で別所線の1日フリーパス
・Instagramの活用:Instagram広告の利用、「#上田紬」キャンペーン(#上田紬をつけてに上田紬に関する写真を投稿してくれた人の中から抽選でギフト券や上田市ゆかりの品をプレゼント)
☆多くの人、特に若い世代に上田紬を知ってもらう | 2022-01-26 |
51 | | 信州大学繊維学部資料館(旧貯文繭庫) | 信州大学繊維学部の母体である官立上田蚕糸専門学校は、日本が工業立国として台頭しようとした明治43年(1910年)に、蚕糸に関する初の口頭教育機関、また、長野県初の国立学校として設立された。そのあと、繊維科学技術全般にわたる高等教育機関に発展し、昭和24年」(1949年)の学制改革により信州大学繊維学部として現在に至っている。 | 2023-05-01 |
52 | | 千曲川を駆けた戦国武将 | 千曲市の上流、佐久・小諸地域は、武田信玄のゆかりの地が多いです。
佐久市新海三社神社は武神が祀られており、信玄が箕輪城攻めをする際、祈願文を奉納したり、川中島合戦前に戦勝祈願した生島足島神社があります。ここの神社は、家内安全、健康長寿、安産祈願などの御利益があり、結婚式を挙げる方もいらっしゃいます。
続いて、甲斐の武田信玄が、越後の上杉謙信と覇を争った、5回、12年にわたる戦いの中で、信玄が戦勝を祈った寺社についてです。
川中島合戦の1回目の戦いは、天文22年(1553)、長野市布施、続いて千曲市八幡で行われ、この「布施の戦い」で信玄は後退する。このとき、上杉謙信が攻略した千曲市荒砥城は、現在史跡公園として整備されています。
3回目は、弘治3年(1557)長野市上野原で行われ、戦の前に、謙信は千 | 2022-01-26 |
53 | | 身代わり地蔵 | 昔真田町にやぶやの長者という金持ちがいた。その家では、こふじと呼ぶ下女がいた。こふじは、主人の長者に弁当を届けに行った。その途中に地蔵様が祭られていたので、こふじは弁当からすこしとっておそなえをした。
さて、弁当を開けた長者はおどろいた。こふじが弁当を食べたと思い込み、焼けた火ばしでこふじをたたいた。その時不思議なことにこふじの姿は消えてしまった。
そのあと、地蔵様を見るとたたかれた跡が残っていた。
地蔵様が信心深いこふじの身代わりになったのだった。 | 2023-05-06 |
54 | | 別所温泉の利用者数の推移 | 2002年~2020年の別所温泉の利用者数を調べ、グラフにした。
2002年からゆるやかに減少しているが、2016年に大きく増加している。理由としては、2016年に放映されたNHK大河ドラマ「真田丸」の放送で上田地域の知名度が上がり、利用者が増加したことが考えられる。
2020年は新型コロナウイルスの影響で利用者が大きく減少している。
出典:観光地利用者統計調査/長野県https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoki/sangyo/kanko/toukei/riyousya.html | 2022-01-26 |
55 | | 二幸商店 | 別所温泉駅のすぐ近くにあるお店です。お土産の販売や軽食の提供をしています。信州の地酒や上田にまつわるお菓子などが売られており、ここに来ればきっといいお土産と出会えます。
軽食処はカウンター席と温かみのあるいろり風の席があり、おやきや団子、今の時期はおしるこなども楽しめます。 | 2022-01-26 |
56 | | 進捗報告 | 上田のゲームを作っているという話ですが、一応ゲームのシステムだけはできあがりました!
ゲームの流れ
開始前
職種(販売、作成、行政、労働)・スタートの駅を決める
資金1万からスタート
↓
(1周目以外スタート時にイベント)
↓
行きたい駅にいったり、働いたり制限時間内に自由に行動できる
(駅は実際の時間に比例
働くのは1回につき持ち時間の25%消費)
この時に、街にあるクエストみたいなのを町民から受けられる
(何があるかはランダム
受けたら完了・放棄するまで消えないが1周で交換される)
このクエストを完了していくと評価が上がって一定以上でその地区の駅を占領出来る
↓
エンド、次の人
職種
販売→物を仕入れて売る職業
物の売り買いに長けているため、物を買う時にその時の値段の10分の1の数値の割引をされる
( | 2022-01-26 |
57 | | つけば漁で獲れる魚 | 「つけば漁」では、季節によって獲れる川魚が異なり、6月末まではハヤ(ウグイ)、7月から10月まではアユが獲れる。
「つけば漁」について調べる前は、なぜこのような魚たちが勝手に集まるのかと疑問に思っていたが、上田地域は千曲川の中流域で、ハヤなどの生息に適している地域ということが分かり、さらに、魚が集まるための場所を作る漁師さんたちの努力の賜物だということも知ることが出来た。
<参考>
上田市 「千曲川のつけば漁」上田市ホームページ
(https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/nosei/2544.html) (2022-1-24 閲覧) | 2022-01-26 |
58 | | サントミューゼは散歩にも最適 | 外周してみて感じたのは、サントミューゼは敷地が広く、施設まわりのアプローチも整備されているので、グルっと一周するだけでもいい散歩になるということだ。実際、犬を連れて散歩する人をよく見かけた。
また、駐車場の方へ行くと川沿いの歩道に上がることができるスロープがある。川沿いの道へでると、千曲川と山々、住宅、不思議と調和する上田市の街並みが見られる。夕方に行くと夕日も見れるのでオススメだ。
そして、スロープを上る途中、サントミューゼ越しに雪を被った山が見えた。サントミューゼがその自然の景色を邪魔をしていないことに驚いた。 | 2022-01-26 |
59 | | 会見之地 | 真田と徳川の合戦のなかで国分寺が登場するのが第二次上田合戦。この地で1600年9月(慶長5年)「国分寺の会見」が行われたとされている。真田が徳川秀忠の軍を足止めしたことで秀忠は関ヶ原の戦に間に合わず、後の家康と秀忠の関係に影を落としたそう。 | 2022-01-26 |
60 | | サントミューゼを外から考える | 前回サントミューゼを訪れてみて建物自体に魅力を感じ、その魅力を探るべく再訪。 | 2022-01-26 |
61 | | 上田紬の魅力 | なぜその探求テーマを選んだのか
テーマを考える最中、上田紬のイベントが最近あったことを思い出したことがきっかけだ。またメンバー全員が服が好きということもあって上田紬に興味関心があったためこのテーマに設定した。
何を探求しアウトプットするのか
上田紬の歴史や庶民的なものから高級品に変化するまでの過程を調べ、どのようにしたら現代の若者にとって身近になるかを考える。
具体的にどのような資料を調べるのか
インターネットのサイトや可能であれば上田紬の工房に足を運び実物を実際に見てみる。また先生から送って頂いた上田市立博物館図録を参照する。 | 2022-01-25 |
62 | | 比較から見る上田市工業の強み | 上田市の隣には、機械・金属工業の中小企業を中心とし、優れた技術力を持つ坂城町がある。工業の分野が似ている両市町には、どのような違いがあるのか。
今回は坂城町と上田市それぞれの工業統計調査を参考にし、それらを比較するための指標として、平成30年における両市町の[①事業所数②従業者数③製造品出荷額④現金給与総額]四つを用いてみた。
《上田》 《坂城》
① 390事業所数 204事業所数
② 18890人 6068人
③ 52,667,396万円 22,748,130万円
④ 9,066,947万円 2,874,596万円
上記からもわかるように、精密機器や機械・金属という主要製品が同じでも、上田の方が製造品出荷額と現金給与総額が高い。これは事業所数・従業者数が上田の方が多いことに加え、大企業の工場を有していたり | 2022-01-25 |
63 | | 上田市の位置は工業向き | ・日本のほぼ中央に存在するため交通インフラが良い
鉄道:JR北陸新幹線・しなの鉄道・上田電鉄別所線(上田駅で接続)
高速道路:上信越自動車道(菅平インターチェンジ)
東京から約190km(北陸新幹線で最短80分)
県庁所在地長野市から約40km
[参考資料]
上田ってどんなところ?-上田市ホームページ(https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/uedapr/5606.html) 上田市ホームページ 上田市 上田市長 土屋 陽一 2022/01/19参照 | 2022-01-25 |
64 | | 壮行會 | こちらの記事は小學校での行事を示した記事である。
今と少し異なるところが5月27日と3月10日に行われた行事だ。
5月27日には海軍記念日として登山を、3月10日には陸軍記念日として記念講話を行っている。これらはどちらも軍を重んじた行事であり、小學校からこのようなことが行われていたと言うことを生の資料から受け取ることができた。
記事はこちらから
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0078.jpg | 2022-01-25 |
65 | | 勤儉週間 | こちらの記事は勤儉週間についての記事である。
勤儉とはよく働き、倹約することの意である。戦地にいる兵隊が苦労しているから私たちもきちんと働き倹約しようという意味を込めてのものだと考察した。
標語である「今日の勤儉 明日の極楽」や「家を興して国を富ませ」等は当時の考えを体現したものだと感じた。
また「一銭を笑ふものは一銭に泣く」という標語が個人的に気に入った。今も昔もお金は大事。
記事はこちらから
1枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0058.jpg
2枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0153.jpg | 2022-01-25 |
66 | | 徴兵 | こちらの記事は徴兵検査の結果についての記事である。やはり戦争ということで徴兵についての記事は多く見受けられた。徴兵検査の結果や徴兵適齢届の存在、また、小学校で兵士の壮行会が行われていたり徴兵検査の心得等々多様なものを発見することができた。
一つ疑問に思ったは、1枚目と2枚目からわかる通り、徴兵令が出されており届出をしないと罰せられるのにも関わらず、結果として31名中10名(6名が無名とあるため16人までの可能性あり)という少し低めな合格率であることだ。徴兵として集められても合格できなかった人は一体何をして過ごすこととなるのだろうか。
記事はこちらから
1枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0006.jpg
2枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0016.jpg
3枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0060.jpg
4枚 | 2022-01-25 |
67 | | 現役兵 | この記事は塩田の村における現役兵を示したものである。
大勢の方の名前が記されているが、私が疑問に思ったのは左側に書かれている「海軍」についてだ。筆者は横須賀という文字から神奈川に配属された兵だと考察をした。なんとなく海がある県の方が適していると感じているが、長野県は海無し県であるのにも関わらず海軍に任命されるのが少し疑問に思った。
記事はこちらから
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0003.jpg | 2022-01-25 |
68 | | 美味だれの波及と影響 | 2011年4月に開店した大型ショッピングセンター「アリオ上田」内で販売を始めたイトーヨーカドー上田店では当初、全国のヨーカドー店舗でトップの焼き鳥販売本数を記録した。注文が増えている飲食店もあり、認知度が高まりつつあるようだ。
ヨーカドー上田店は、実行委の協力で開店前に商品の試食会を開くなど、販売に力を入れている。同店によると、美味だれ焼き鳥の1日の売り上げ本数は、上田駅前(お城口)にあった旧上田店の焼き鳥の約15倍、全国平均の約4・5倍と好調さが続いている。 | 2022-01-25 |
69 | | 様々なレシピ | ニンニク醤油仕込みの美味だれは、焼き鳥の他にサラダや鶏丼、オムライスなどにもよく合う。また信州野沢菜にも美味だれをかけると絶品である。焼き鳥に関してはほぼ全てに合うが、個人的にはぼんじりとねぎまに良く合う。上田市中心部の人気店「つづらや」では、客が卓上のツボからタレを焼き鳥にたっぷりとかけて食べる。炭火で香ばしく焼いた塩味の焼き鳥に、ガツンとニンニクの風味と甘辛味が絡み合い、パンチの効いた味わいだ。
地元有志でつくる「美味だれで委員会」が進めている普及活動の一つが、タレを焼き鳥以外の料理でも活用する取り組みだ。地元飲食店やコンビニなどと協力してメニューを開発。唐揚げやラーメン、チキンバーガー、クレープなど様々な可能性を広げてきた。
ボトル詰めしたタレを販売する動きも広がって | 2022-01-25 |
70 | | 定着 | 上田ではこのたれで食べることが定着し、特別な呼び名は存在しなかった。2011年2月、市民有志により実行委員会が発足。上田地方の方言で親しい仲間に使う愛称である「おいだれ」、「美味しいタレ」、好みにより後から追加できる「追いダレ」の3つの意味を持たせた『美味だれ』と命名された。2012年には、上田市を商標権者として、『美味だれ焼き鳥』『美味だれ』が商標登録された。この料理の原形は焼き鳥店のテーブルに置かれた、たれの入ったコップに焼き鳥を浸して食べる方法であり、この場合は衛生上、大阪の串カツなどと同様に二度漬けは厳禁とされている。 | 2022-01-25 |
71 | | 美味だれを深く掘り下げる。 | すりおろしたニンニクが入った醤油ベースのたれに焼き鳥をつけたり、焼き鳥にたれをかけたりして食べるものである。昭和30年代に、上田市内の焼き鳥店で考案され、市内の家庭や店舗に広まったとされる。さらに、たれにすりおろしたリンゴが加えられるなど、店舗ごとに個性的な味が生まれていった。 | 2022-01-25 |
72 | | 上田工業の歴史 | ①蚕のまち上田
江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県経済は蚕糸業に支えられていた。上田はそんな長野県中でもいわゆる「蚕都」として名をはせていた。その要因としては、扇状地や河岸段丘の発達により桑の栽培適地であったこと。また、雨が少なく乾燥した気候が蚕の飼育に適していたこと。そして全国にさきがけて開校された、小県蚕業学校(現在の上田東高校)や上田蚕糸専門学校(現在の信大繊維学部)などによる蚕業教育が充実していたことが挙げられる。
②精密機械工業へのシフト
長野県が戦前から養蚕・製糸業に代えて精密機械工業へと産業育成の重点をうつし、かつ終戦後の1960年代には高度経済成長で商工業が発展したこともあり、上田の蚕糸業(養蚕、蚕種、製糸)も例外なく衰退を迎えた。しかし蚕糸業で培われた技術的 | 2022-01-25 |
73 | | 木片人形 | 木片人形とは小さな木を人型などに加工したものです。一つ一つが手作りされており、細かい表情などが見事に表現されています。人型のものだと服装や姿勢から作られた当時の環境を知ることができます。今ではこの木片人形を広げるためにお店の看板などに用いられたりしています。この写真は柳町にあるルヴァンというパン屋さんとCo・LABO shopというカフェの看板です。 | 2022-01-25 |
74 | | 実際の作品 | 千二百点以上の作品が飾られている中でも印象に残ったのは木彫りの食べ物シリーズでした。ザクロやほおずきなど木でできてるとは思えない作品がありました。その中でも特にほおずきがすごかったです。ほおずきの皮のしわしわ感はもちろん、ながい茎まで見事に表現されていました。さらにその茎の部分は別々で作ってくっつけているのではなく、一つの木から掘り出しているらしいのです。木というものはまっすぐに掘り進めれば折れにくいものの、カーブしだした途端折れやすくなってしまうため茎は失敗しやすくなっています。そのほかにも箱などの工芸品や海外の作品も飾られていました。 | 2022-01-25 |
75 | | 尾澤木彫美術館 | そんな農民美術品を実際に見たり、購入できる美術館があります。それは信濃国分寺駅近くにある尾澤木彫美術館です。実際に新潟の山中にあった古民家を洋風にリフォームして活用した外観がとても素敵でした。その中には多くの農民美術が飾られています。ここは農民美術の先駆者出会った山本さんと共にいた尾形千春さんとそのご子息である尾澤敏春さんの木彫り作品などが貯蔵されています。 | 2022-01-25 |
76 | | 山本鼎さんとは | まず農民美術とは農民の方々が作物の育たない冬の間に行なう生業として生まれました。提唱したのは山本鼎さん。彼は立ち寄ったロシアでそこの人々が行なっていたものを参考にし帰国後、長野県神川村(現在の上田市)にて第一回農民美術講習会を開きました。彼自身も多彩な芸術家であり、彼が起こした農民美術運動は後の世に大きな影響を与えました。 | 2022-01-24 |
77 | | 抜け道、近道としての山道 | 名前の通り、その山道を通ると近道になるような山道。
上田周辺だと国道143・144・254号なんかはそうだろう。
例えば、144号なら東御・小諸・軽井沢から上るよりも早く、簡単に嬬恋方面へ抜けられる。
254号なら松本へのアクセスが容易になっている。
真田に住む人からすれば、県道35号も長野市への近道になるだろう。
長野県は平地より山地のほうが多い関係上、平地を伝うより山道を作った方がいい場合がある。 | 2022-01-24 |
78 | | 信州は山の国 | 信州も信濃も、ほとんどいまと同じ長野県のことだと、初めて知りました。
信濃の地名は、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」「級」(しな)に由来しているとされ、名付けられ方で分かるとおり、坂と峠の多い県です。
長野県は、四方八方を2,000~3,000m級の山々に囲まれたまさに山国。県面積は、1万3,562.23平方キロメートル。(境界未明含む)全国第4位の広さです。
総人口は206万5,359人 (2,018年7月1日時点)ですが、
人口密度は1平方キロメートルあたり152.3人で、全国で下から9番目と少ないことも、山国の特徴。
県のほぼ全域が標高500メートル以上、
可住地面積の割合が低く、また人口密度(1平方キロメートルあたり)も152.3人と全国で第38位にランクインするぐらい少ないなど、山国の特徴が顕著に出ています。
特に、妙高山(2,454 | 2022-01-24 |
79 | | 上田別所線を掘り下げ、広めたい | この本は上田小県近現代史研究会が15年ほど前に、上田別所線の歴史をまとめた本だ。
この本を読めば上田の歴史を知ることが出でき、どれだけ地元の人に愛されてきたかが分かる。
今上田の観光地となっている別所温泉街の原型は別所線開業後に、温泉を新たに掘削して完成した。
この本によれば上田別所線は昔、丸子線や青木線など様々な路線がありましたが、バス交通の発達に押され次々と廃線となってしまいました。しかし、別所線は住民たちの存続運動などのおかげもあり、今もなお走り続けています。
参考文献 夢と暮らしを乗せて走る別所線 | 2022-01-24 |
80 | | 山道と雪 | 色々な山道を走ってきて、特に雪道の状況の違いがあるなと感じた。
国道406号なら、上田側はアスファルトが見えるくらい除雪・融雪していたのに対し、須坂側はほぼ白一色だった。
この場合は北側である須坂の方が降雪量が多い、カーブが多く除雪のしにくい等の理由があるのではないか。
同じような時間帯に通っても、ある場所は凍っていて、ある場所は路面が乾いていることもあった。
その日その日の天候や気温、高度、山の北側か南側かなど多くの要因が複雑に作用しあっているため、違いの法則性を見つけることは難しそうだ。 | 2022-01-24 |
81 | | 冬の菅平 | 厳しい寒さで有名な菅平だが、冬場のアクセスについて考えてみる。
前の記事で書いた通り、冬季は県道34号が通行できなくなる。
そのため、長野市から直通で菅平に行くことができず、須坂のほうまで迂回しなければならない。
また、国道406号は通行止めが無いとは言っても、須坂側は勾配がきつくヘアピンカーブも多いため、お世辞にも走りやすいとは言えない。
対して上田側はきついカーブが少なく、雪量も比較的少ないので、アクセスがしやすい。
雪道において走りやすい、不安要素が少ないことは、明らかな上田側のメリットである。 | 2022-01-24 |
82 | | 国道406号、須坂側 | こちらは須坂側の様子。
写真から分かるように、路面に雪が残っている。
この日は上田から上って須坂に下り、帰りは須坂から上田にという感じで走ったが、須坂側は明らかに路面上の雪が多かった。
道幅は上田側と比べると若干狭いように感じられた。
晴れていたこともあり、まるで天に繋がっているかのような景色が見られた。 | 2022-01-24 |
83 | | 菅平高原 | 菅平高原は上信越高原国立公園に属し、冬の寒さが厳しい土地。
数多くのスキー場があり、冬季はウィンタースポーツを楽しめる。
県道34号長野菅平線が冬季通行止めとなり長野市からのアクセスはできないが、国道406号を使い上田市・須坂市からのアクセスが可能となっている。 | 2022-01-24 |
84 | | 国道406号、上田側 | 上田側から国道406号に乗ってすぐ、チェーン脱着ができるようなスペースで撮影。
時刻は11時くらい。
除雪がしっかりされていて、冬用タイヤならば楽々通行ができる。
除雪された雪が端に固まっているので、非降雪時と比べると道幅は狭くなっている。
しかし、もともとの道幅が広いので、対向車とのすれ違いに問題が出ることは無さそうだ。 | 2022-01-24 |
85 | | 菅平へ | 上田から菅平に行きたいのならば、この交差点を左折して国道406号に乗ることで行くことができる。
この道をずっと行くと、途中で以前紹介した菅平ダムの横を通り過ぎる。
また、右折をすると鳥居峠やなかざわを通る、嬬恋方面の道になっている。 | 2022-01-24 |
86 | | 上田藩の死者数、正福寺の千人塚 | 千曲川流域には、「戌の満水」の流死者供養塔が幾つも残されている。それには2種類ある。一つは、多くの犠牲者を出した現地に建てられたもの、もう一つはたくさんの流死者が流れ着いて埋葬された場所に建てられたものだ。千曲川の上流では、上畑村(佐久穂町・248人)小諸城下(小諸市・507人)所沢川流域の金井村(東御市・130人)田中宿・常田村(東御市・68人)などで多くの流死者を出した。そして、まず大量に流れ着いたのが、上田だった。
「千曲川も上田まで来ると、流れが緩やかになる。上流から流されてきた死体が上田に流れ着いた。上田藩主の命令で段丘上の秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して、後に碑を建てた。それが千人塚と呼ばれている。また正福寺境内には石造地蔵尊があり、縁者がたくさん亡くなっ | 2022-01-24 |
87 | | 戌の満水とは | 長野県千曲川流域の歴史的な洪水として、仁和4(888)年の洪水、弘化4(1874)年の善行寺地震の後の洪水がよく知られている。ところが、寛保2(1742)年の洪水「戌の満水」は、全国的にも近世以降最大の水害と呼ばれているのに知らない方が多い。
その理由の一つとして、昭和16(1941)年に連続堤防が完成、大きな水害が激減し流域住民の洪水への恐れ、関心が急激に薄れてきていることが挙げられる。しかし、寛保の洪水が「未曽有の水害」「前代未聞の水害」といった表現のまま、流死者など具体的な被害実態が集計されてこなかったため、訴える力が弱かったこともある。
流死者は2800人前後に達することが明らかになり、長野県内で被害が大きかった「三六災害」の死者は107人、不明が29人である。現在の | 2022-01-24 |
88 | | 梅翁寺 | このお寺は湯田中温泉の守護発展のために、1688年に薬師如来を本尊として別峯宗見(べっぽうそうけん)和尚様が来られて建てられた。境内にある手水舎(ちょうず)は龍をもした彫刻であり、その口からは温泉が流れる。
また平成22年5月8日に全国初となるお湯につかるお地蔵さん「延命湯けぶり地蔵尊」が建てられた。大きさは1メートルほどで、片足だけお湯につかることで温泉の持つ霊力を吸収しているとされておる。そのお地蔵さんの肩や腰などを湯に浸した白布でさすることによって温泉の持つ効用が伝わり、ぴんぴん・しゃんしゃんと元気になるとされるぴんしゃん地蔵手拭いと呼ばれる参拝が行われている。 | 2022-01-23 |
89 | | 綿の湯 | 湯田中駅から渋温泉へ向かう途中に2つの温泉を見つけた。
その1つがこの「綿の湯」である。こちらの温泉はかけてあるパネルにある通り、上の四字(痊・痾・保・生)はそれぞれに意味があり、総じて「やまいをいやししょうをたもつ」ということで「こじれた病もすっかり治す」「生命を保ち長らえる」と言った効能があると言われている。 | 2022-01-23 |
90 | | 湯田中駅周辺~楓の館・楓の湯~ | 楓の館は昭和2年4月28日に開業した旧湯田中駅舎をリニューアルしたものである。
旧湯田中駅舎は志賀高原につなんだ山小屋風で、当時としてはとてもモダンで大変人気であった。
現在は駅舎としては利用されておらず、交流室や展示室として利用されている。
国土の歴史的景観に寄与しているとして、昭和2年に有形文化財に登録された。
この旧駅舎に楓の湯と呼ばれる温泉が隣接している。大人は300円で入湯できる。
またその旧駅舎前には無料で解放されている足湯がある。筆者は保育園の頃遠足で訪れ入った記憶がある。 | 2022-01-23 |
91 | | 江戸の上田(『上田古地図・絵図デジタルアーカイブ』) | 江戸時代の上田を知るためにまずは『上田古地図・絵図デジタルアーカイブ』を閲覧した。天正の図は確かなものが見いだされていないそうだ。この頃は河が目立ち、寛永のの図では侍町というものが登場している。正保になると上田城の形がよく見えるようになっている。時代が進むにつれて図の見やすさも表れ面白かった。 | 2022-01-21 |
92 | | 小林昌人「蚕業の先駆者を輩出した上田市上塩尻の集落と民家」1990 | 【左】テキストコード化版 【右】『信濃』誌記事コピー
蚕種製造の中心地であった上田市上塩尻の歴史的・文化財的価値について言及した論文は小林昌人氏(1931~2001、長野県松本市生まれ)の「蚕業の先駆者を輩出した上田市上塩尻の集落と民家」(1990)が最初ではないかと思われる。
ここにその論文を転載し、諸活動の参考にしていただきたい。『信濃』誌記事はコピーでは読みにくいため、テキストコード化も行った。
所載:『信濃』第42巻第1号 pp.23~35 信濃史学会 1990 年1 月
テキストコード化・文書整形:長野大学前川道博研究室 2018 年09 月13 日 | 2022-01-18 |
93 | | 備忘メモ 塩尻地区/上塩尻・過去の調査研究 | 蚕種製造の中心地であった上塩尻(上田市上塩尻)については、過去30年以上にわたり学術的な調査研究、地域づくりに向けた調査研究が取り組まれてきた経緯がある。惜しまれることにそれらは主体が異なり、断続的であることが共通した傾向である。
2018年8月時点で、過去における調査研究をリストアップし、それぞれの調査研究の内容を概観した。 | 2022-01-18 |
94 | | 信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録3 | Map作成活動
いよいよMap作成活動にとりくむ。地域の魅力を伝えるためにどんなMapが良いか企画を練るうち、温泉センターで昔の観光地図を発見。レトロなカッコよさに感銘を受け、和テイストで斬新な絵地図を作成する方向性に決定!!
500年続く雨乞い祭りで夫神岳山頂に祀られる龗(おかみ)の文字や九頭竜大権現をモチーフにすることで、里山の自然に畏敬の念を抱く昔の人の精神性や、現代の日本遺産「龍といきるまち」を表現できるという意見があり、龍を中心にMapを作成することにした。すごく斬新でカッコイイ、他にはないMapができるとワクワク。
龍が守る里、これを見て、「過疎だから移住してきて」で゜はなく、なんだかカッコイイ奴らが里山にいるみたいだから行ってみよう、と若い世代に発信できるようなMapにしたい!と意気込 | 2022-01-14 |
95 | | 上塩尻の集落の模型(1992年)発見 | 【上】集落模型(佐藤家住宅の部分)1992年
【下】集落模型(佐藤家住宅[佐藤尾之七邸宅])1897年(『日本博覧図』所載、上田市立博物館所蔵)
蚕種製造民家群が数多く残る上塩尻の民家は1989年度から1991年度にかけて当時の工学院大学山崎弘研究室によって調査されました。それからかれこれ30年近くが経過し、その調査を知る人も少なくなったばかりでなく、所在がわからなくなっていた調査資料を最近になってやっと探り当てることができました。そのことだけでも大きな感動です。
そしてつい先日、その調査で作成された上塩尻の集落のミニチュアが発見され、眼前で確認しました。「長野県上田市上塩尻の養蚕民家集落 Scale:1/500 1992.3.28 工学院大学 山崎研究室」と記されています。
山崎研究室の調査では、上塩尻の蚕種製造民家のうち23軒が調査 | 2022-01-12 |
96 | | 藤本善右衛門(昌信・保右・縄葛) | 「上田を支えた人々 上田人物伝 藤本善右衛門(昌信・保右・縄葛)」
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/028.html
(上田市マルチメディア情報センター)
ネットで藤本善右衛門を検索すると参照ページは意外に少なく、現時点ではWikipediaにすら記載されていません。ほぼ唯一、内容を知ることができるのがこの記事です。説明文は『上田市誌第28巻』の「藤本善右衛門」を要約した内容になっています。
「上田地方を蚕種製造の全国的な中心地に発展させた功労者」として紹介されています。藤本善右衛門は蚕種製造を営んでいた上塩尻の佐藤本家の当主の襲名です。代々の当主のうち、特に業績のあった昌信(1722-1773)、保右(1793-1865)、縄葛(1815-1890)が紹介されています。
縄葛は1845年、蚕種の新品種「掛合」を育成し「明治初年の蚕種輸出の大変盛んだった時 | 2022-01-12 |
97 | | 信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録2 | 信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。
塩田平・別所温泉地区を中心に、上田市は、「レイラインがつなぐ太陽と大地の聖地〜龍と生きるまち」として、日本遺産になっています。学生たちも龗や九頭竜大権現を祀る男神岳、女神岳に抱かれた民話や雨乞い祭り、文化財について学びました。
今年の8月、10月には、ボランティアガイドの会など他の地域団体とも共同して、日本遺産に認定された塩田・別所地区の文化財についてレイラインの観点から方位や日 | 2022-01-05 |
98 | | 信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録1 | 信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、SATOYAMAイニシアチブにもとづずいて、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。今年のアグロフォレストリープロジェクトには、地域の若者、移住者とともに、長野大学の学生が29名(福祉学部4名、企業情報学部1名、環境ツーリズム学部24名)が参加し、若者の視点で見た里山の魅力を絵地図にしました。
持続可能な社会づくりに向けて、自然と調和してきた里山の暮らしを発信していく、SATOYAMAイニシアチブにもとづき、住んでいる人にはあたりまえすぎて気づかない魅 | 2022-01-05 |
99 | | 忠魂碑(御影) | 御影区内の成田山境内に建立されている。
昭和27年10月10日再建と刻まれている。
大正4年の『北佐久郡志』の第四編町村篇の南大井村の記述(152ページ)によるとここに再建される以前は和田にあったようである。
「九、兵事
〇忠魂碑 大字和田字北原甲州街道の北側にあり、砲弾形の石碑にして表面明治三十七八年戦役忠魂碑の題字は乃木大将の筆にして、明治四十一年四月の建設。」 | 2021-12-28 |
100 | | 可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」 | 2022年1月に、可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」を以下の内容で作成しました。
2022年2月開催の「舌喰池水鳥観察会」やさまざまなイベント・活動で、この看板(看板の画面サイズ:横幅200cm×高さ100cm、看板の脚を含む高さ160cm)を活用する予定です。
■看板作成:
長野大学地域づくり総合センター「信州上田学」地域連携パートナー事業 舌喰池水鳥観察会
■監修:
長野大学環境ツーリズム学部 高橋一秋教授
■デザイン・鳥類データ(2016年~2021年に舌喰池で調査)・写真(塩田平ため池群で撮影)・イラスト ・解説(出典:原色 日本野鳥生態図鑑<水鳥編>(保育社)、山渓カラー名鑑 日本の野鳥(山と渓谷社)) :
高橋一秋・大和田樹里・三枝広樹・横内はるひ(写真加工)・小猿夏海(イラスト作成)・豊田雄基 | 2021-12-27 |