写真 タイトル 説明 登録日 1 米沢鯉 鯉の宮坂として親しまれている米沢市の郷土料理です。米沢
のABCの館山林檎、米沢牛と並ぶ名産品で、鯉の旨煮になどの鯉料理はお盆、お正月などのお祝い事に食べられます。
「みやさかや」は地元でも人気の鯉販売店です。 2021-05-05 2 自然と暮らす喫茶 hanatoki 2020年12月に別所温泉にオープンしたカフェと雑誌のお店「hanatoki」。
パンとお菓子のお店「marufugi」さんの店舗を借りて営業中だそうです。
「自然と暮らす喫茶」というお店の名前がぴったりなお洒落なカフェ。
古民家を改築したカフェを営業中で、深煎りコーヒーやブレンドコーヒーの他にプリンやベイクドチーズケーキなどのデザートも食べられます。
マフィンや焼き菓子をテイクアウトすることも可能。
お子さん連れのお客さんもいらっしゃいました。
コーヒー以外にもカフェオレ、リンゴジュース、シロップジュースなどがありお子様も気軽に来られるカフェ。 2021-05-05 3 お月様 山から月が登ってきた瞬間を写真に収めた 2021-05-05 4 月窓寺 このお寺は私のバイトしているスーパーの裏側にあり、スーパーの駐車場から頭だけ見える位置にあるので、ずっと気になっていた場所です。入り口は別の所にありますが、横側からでも入ることが出来ました。ですが、せっかくなので正面の入り口まで戻り、参拝しました。月窓寺は今回の調査の中で一番大きなお寺です。
月窓寺は、海野一族の真田幸隆公の弟、隆永公が開基です。境内には赤松小三郎の髪の毛を埋めた墓があります。
そして、月窓寺を調べたときに「山門は竜宮門(鐘楼門)で天井には龍の鏝絵が描かれています。」と書かれていたので実際に見てみると、見事に美しい龍が描かれていました。 2021-05-05 5 開運出丗(出世)稲荷神社 別の神社へ向かう途中の海野町商店街を歩いていた時に偶然見つけた神社です。かなり小さい神社で、大きさは2メートルちょっとです。
この神社の情報を見つけることは出来ませんでしたが、石に刻まれている文字を見てみると「昭和24年12月吉日」と書いてあるのがわかります。私が調べた寺や神社と比べるとかなり最近に出来たことがわかります。
この神社は路地にひっそりと建てられており、月極駐車場の中にあります。
タイトルの「出丗」は誤字ではなく、石に刻まれた漢字をあえてそのまま記しました。 2021-05-04 6 地域情報メディア論 商店街の様子 前橋市の商店街は写真を見てください。今はあまり人が多くありませんが、コロナウイルスが流行る前は年に何度もイベントを行って、道路の両端には屋台がたくさん出ます。人も普段より何十倍も来ます。写真の右側の奥には「イベント広場」があって、イベントがあるときには演奏をしたりダンスをしたりしてとても盛り上がります。1枚目の写真が現在で、2枚目の写真がコロナ禍前のイベントの時の写真です。これは7月に毎年行われていた七夕まつりの様子です。 2021-05-04 7 東條健代神社 上田市にある東條健代神社は由緒・創建年月とも不明で謎に包まれていましたが、悠然と構える本堂からは歴史を感じさせられました。
また境内には上田市指定樹林の立派なケヤキが立ち並んでおり、自然の力強さも感じられました。
また本殿にある彫刻はとても素晴らしいモノでした。 2021-05-04 8 百々川緑地 臥竜公園横を流れる百々川の河川敷につくられた緑地。
きれいに整備され、ゆっくりお散歩するにはちょうどいい。
写真にあるように、5月になると川岸を渡すように鯉のぼりが風に乗っている。夏は河川敷で花火があがる。 2021-05-04 9 姨捨山 姨捨山には寺社や棚田などがあった。特に棚田は、現在は水を張っていないが、水を張る季節になれば田毎の月を見ることができる。また、自然の美しい場所だった。 2021-05-03 10 潮海寺 奈良時代、聖武天皇のころ(およそ750年)名僧行基により開かれたと伝えられる当地方きっての古刹高野山釈迦文院の直末といわれ、平安時代に坂上田村麻呂の帰依によって寺領が寄進されたといわれている。往古は寺領3千石、寺域に75坊を数える名刹として知られていたが、兵火により全焼し、伽藍の規模は残された22の礎石と布目瓦によってしのばれるのみ。
現在、この地には朱塗りの薬師堂金剛院が建てられ、薬師如来縁日の毎月8日午前10時から護摩が焚かれている。不動明王像が安置されている書院風の学頭坊は、薬師堂の南200メートルほどのところにあり、さらに100メートルほど南に市指定文化財の仁王門がある。江戸中期に建てられ、平成3年に解体修理が行われた寄棟造りの八脚門の左右には、高さ3メートルほどの寄木造りの仁王像が立ってい 2021-05-03 11 三ツ池公園 毎年4月の第一度土曜日に開催される水源祭の会場となる公園である。この水源祭では水の恵みや水害防止、五穀豊穣などを祈願。餅つきや宝探しなど、子供からお年寄りまで楽しめる。野猿という渓谷を楽に渡るための乗り物がありスリリングな気分を味わえる。 2021-05-03 12 [14/09/11]長村役場等の跡、山家神社 向畑遺跡から山家神社へ移動しました。山家神社へは過去にも訪れたことがあり、この時は一時休止しただけです。山家神社の駐車場が長村役場跡です。真田自治会による説明板のおかげで歴史がよくわかります。
2009年(平成21年)までここに旧役場庁舎があったことも驚きです。
長村役場・農協・駐在等の跡
「長村」は明治9年5月大日向・横沢・真田・横尾4か村が合併して誕生した。
当初の役場庁舎は、明治元年の神仏分離令により廃寺となった白山寺の一部があてられていたが、ここに庁舎が新築されたのは明治36年。昭和33年に真田町に合併されるまで、改築を経て村政が執行された。
当時から長村の中心地として役場の他、農協や警察官駐在所などがあった。
旧役場庁舎は平成21年に取り壊された。
平成 2021-05-01 13 [14/09/11]角間区民広場 安智羅明神と日向畑遺跡の間に矩形の公園「角間区民広場」があります。真田氏館跡とされる日向畑遺跡の屋敷跡であるようです。ゲートボール場になっているようです。
角間区民広場
真田昌輝第十二代 真田幸雄 書
(以下裏面の文面)
昭和五十四年末中電送電線架設実施計画がはじまりこれに対する地域補償金を基金とし公共施設の区民広場建設に当り、町当局をはじめ土地所有者・工事施工者・関係区民の深いご理解とご協力によりここに完成をみるに至りました。
ここに所在する日向畑遺跡をはじめ松尾城跡は真田氏発祥の関係域跡群の一つとして重要な文化財であります。この遺跡を誇りとし この広場が区民のさわやか健康づくりの場として大いに活用されることを期待します。
昭和五十七年九月吉日
(略) 2021-05-01 14 [14/09/11]安智羅明神 日向畑遺跡に行くつもりで安智羅明神に先に立ち寄りました。史跡「安智羅様」の看板に誘導されました。祠と鳥居が建っています。その手前には門石のような石柱が2つ建っています。「辛亥九月建立」と読めます。辛亥(しんがい)と聞くと先に「辛亥革命」を連想してしまうせいか、「辛亥九月」には違和感がありました。これは干支のイノシシという意味のようです。イノシシ年9月…何年をさすのでしょうか。
角間自治会による説明板の存在が実にありがたい。この説明を見て安智羅明神を理解しました。
安智羅明神(あんちらみょうじん)
鎮座地 上田市真田町長角間
この地は真田家の古いお屋敷跡で松尾古城のふもとに位置する。
神社のご神体は真田幸隆の幼少の姿を写した像と伝えられている。
※創立は一五三〇年( 2021-05-01 15 六供無縁堂(六供区無縁仏墓地公園) 小諸市六供区、18号下の中沢川近くに、寛保2年(1742年)8月の戌の満水と呼ばれる大水害で亡くなった無縁仏の墓地。
小諸市のホームページ
https://www.city.komoro.lg.jp/official/kanko_sangyo/kanko/rekishi_bunka/2/6696.html
によると、この水害では
「小諸では旧暦8月1日に、六供、本町、田町、袋町、さらには小諸城三之門なども流失する大災害となりました。小諸城下では、507名の死者を出しました。
六供無縁堂は、死者の御霊を供養するとともに、災害復興を記念して1754年8月1日にこの地に建立されました。」
とのことです。
二十三夜塔も2基あります。 2021-02-28 16 愛知県砂糖配給統制の実際 愛知県砂糖配給統制の実際
昭和十八年二月
愛知県経済部経済調整課 2021-02-27 17 議事書類綴 別所温泉の外湯が5ヶ所されているが残っているものは3ヶ所である。
大正8年別所村_議事書類綴(上田市公文書館所蔵)によると村営温泉:大湯・玄斉湯・大師湯、久我湯・石湯 5ヶ所改修議案が提出されている。(大正8年12月18日提出)
現存の外湯は大湯、大師湯、石湯の3ヶ所であり、2ヶ所が廃止になった時期と理由を調べたい。 2021-02-27 18 地域学講座④みんなで地域探求ネット展示披露会 左:「みんなで地域探求ネット展示披露会」(前川道博)
右:「著作権と資料の権利処理」(久世均)
第4回 2月27日(土) みんなで地域探求ネット展示披露会
13:30 本日の説明
13:35 ミニ講義:著作権と資料の権利処理
14:05 受講者のキュレーション成果披露・講評Q&A
15:00 (休憩)
15:10 成果披露・講評Q&A(続き)
15:40 認定資格デジタルアーカイブ・クリエイター について
15:50 まとめ講評、これからに向けて
16:30 終了
<講師>
久世均さん(岐阜女子大学教授) ミニ講義「著作権と資料の権利処理」
小平千文さん(上田小県近現代史研究会会長) 成果披露の助言・講評
<みなさんの地域探求ネット展示>
★buchiさん 南牧村の歴史と満蒙開拓
★オリサさん 2021-02-27 19 上田温泉電軌真田線の延伸計画について 1926年11月25日の官報第4277号と1935年9月16日の官報第2613号に、上田温泉電軌(現在の上田電鉄)真田線の真田から先の区間の延伸について記述があった。
以下が国立国会図書館デジタルコレクションのURLである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956427/3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959092/4
この2つの官報では、終点であった真田駅から先、当時の小県郡長村の大字であった大日向地区への路線敷設免許の下付と失効それぞれについて記述されていた。
下付が1926年、失効が1935年であることを考えると、その間の昭和恐慌によって計画を断念せざるを得なくなってしまったのではないかと考えられる。 2021-02-27 20 公文書利用で始める地域学講座(2021/02/06開講)概要 【受講申込】受講申込は終了しました。
まちなかキャンパスうえだ市民向け講座(長野大学/ネット利用講座)
市民キュレーション講座「公文書利用で始める地域学講座」
開催期間:2021/2/6, 2/13, 2/20, 2/27 毎週土曜日4回 13:30~16:30
ビデオ会議Meet利用、全国から受講できます。受講される方にはMeet URLをお伝えします。
【講座のお問合せ先】◆は@に置き換えてください。
◎講座申込について 地域づくり総合センター事務局 TEL:0268-39-0007 renkei◆nagano.ac.jp
◎講座内容について 前川道博(長野大学/講座担当) TEL:090-2270-5074 maekawa◆nagano.ac.jp
<講座案内PDF版>
※2頁以降に詳しい説明を載せてあります。
【プログラム】
第1回 2月6日(土) 一次資料から地域をひもとく
第2回 2月13日(土) 地域の資料探しと成果物のネット展示
第3回 2月20日(土 2021-02-27 21 十二方作命丙第五八号 七月二十二日 上田附近三菱重工業に関する件 昭和20年7月22日
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer
十二方作命丙第五八号 七月二十二日
1 第8野戦輸送隊を、十二方作命丙第30号による上田付近、三菱重工業会社第5製作所分散防護工事協力期間を約1か月延長す。
2 第8野戦輸送隊長は前号工事のため、自動貨車役20両に応ずる人員を増強すると共に、引き続き該工事に協力すべし。
また左記により兵力を差し出し宇都宮地区における、皇国第1814工場の資材疎開輸送を援助すべし。
左記
(イ)差出兵力 将校の指揮する自動貨車役20両
(ロ)差出期間 約一週間
(ハ)所要自動車燃料は工場側の負担とす。
3 細項に関しては関係機関相互協定すべし
第十二方面軍司令官 田中静壹
下達□印刷交付(工場側には宇都宮師管 2021-02-23 22 南牧村村史 資料情報 追加
南牧村村史 1986年3月発行 2021-02-20 23 上田市と岡谷市における蚕業の比較 まとめ 私は、上田市と岡谷市の蚕糸業の比較として、蚕糸業における様々な施設についてまとめた。その中で理解した相違点や共通点、蚕の今後の展望についてまとめる。
・相違点
同じ蚕糸業で栄えた上田市と岡谷市だが、上田市は「上田蚕種協業組合事務棟」や「常田館製糸場」の現存から養蚕業や製糸業を行っていたことがわかる。一方で岡谷は、「岡谷蚕糸博物館」に展示されている多数の繰糸機や「宮坂製糸所」の現存から製糸業で栄えたといえる。
・共通点
岡谷市の工女さんは、1910年には岡谷の人口2万3000人に対して、工女さん1万5000人と65%を占めていた。その後、1930年には岡谷の人口7万6500人に対して、工女さん3万4500人と45%を占めており、工女さん達は岡谷市の支えとなっていた。工女さんは10代半ばから20代前半の若い女性で、重要な 2021-02-10 24 野沢菜漬け 野沢菜の発祥は、一説には野沢温泉村にある健命寺の8代目住職が宝歴6年(1756年)に京都から持ち帰った天王寺かぶの種を寺畠にまいた際、その天王寺かぶの種から違った形のかぶ菜ができ、その後、系統選抜をして育てたものが最初とされていましたが、
この説は近年の研究で、天王寺かぶの系統ではないというDNA鑑定の結果が出ており、かぶに由来する別の変種と考えられています。
野沢菜漬けの材料
野沢菜80g、塩2.5~2.8kg、醤油1.8L、酒または焼酎1.8L、だし昆布、唐辛子
一般的な作り方としては、洗う、塩水に漬けるを繰り返しその後発酵・熟成させると出来上がるようです。
漬けて2~3週間後から食べられますが味の安定は1か月かかるそうです。
参考文献:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会、「信州の発酵食」小泉武 2021-02-10 25 白鳥神社 これは2021年2月10日に撮影した白鳥神社の写真である。
海野氏と真田氏の氏神として祀られた。 2021-02-10 26 運の石 これは2021年2月10日に撮影した運の石の写真である。
この運の石は海野町商店街の高市神社に祀られている。
高市神社のご神体は、海野宿の隣にある白鳥神社にあった霊力のある石であり、真田昌幸が築城する際に祀られたといわれている。このとき祀られたご神体には直接触れられない。そのため、真田昌幸と関係がある高野山九度山の神石が触れられる運の石として祀られている。 2021-02-10 27 第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁) 農地改革に関する記事。
戦後日本で行われた政策のひとつである農地改革の実際の内容を見て取れる。
これにより土地を得た人と取り上げられた人がいることが良くわかる。
農地委員か地方長官の許可がないと取得・取り上げが行えず行政の管理下に置かれている。
▼この記事は以下から参照できます。
#963 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁 2021-02-10 28 本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁) 麥作に関する記事。
各農家へのお願いが書かれている。
食糧危機ながらも乗り越え、稲作も順調に進んだとあり、食糧不足に光明をもった様子。
肥料不足は続いている模様。
▼この記事は以下から参照できます。
#955 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁 2021-02-10 29 事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁) 戦後、西塩田青年団報となった。
「事業部の構想」の記事。
終戦後の復興に向けた心構えや意気込みが見て取れる。
食糧不足も続いており、遊休土地の利用や未利用資源の活用などぎりぎりの状況である。
▼この記事は以下から参照できます。
#952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁 2021-02-10 30 農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁) 農會欄の記事。
戦況の激化に伴い、輸送船や国内外の食糧が不足していること。増産のための肥料・資材がなくそれでも増産をしなければならないという苦しさが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁 2021-02-10 31 ニコニコ亭 大学前駅から徒歩4分ほどで行けるレストランです。
メニューが豊富でデザートも充実しています。
レトロな雰囲気のくつろげる雰囲気が特徴です。
昼11時30~15時
夜17時30~21時
木曜定休 2021-02-10 32 華龍飯店 上田店 赤坂上駅から徒歩1分ほどで行ける中華料理屋です。
価格に対して量がとても多いのでセットを頼むときは注意が必要ですが、かなり食べ応えがあるので学生の方に人気があります。ほおばり切れないほど大きな唐揚げが特徴です。
昼11時~14時
夜17時~27時
第2第4火曜定休 2021-02-10 33 かめや 神畑駅から徒歩2分ほどで行ける和食店です。
肉厚なカツが豪快に乗ったカツ丼が人気のお店です。
優しい甘めのカツが好きな方にはぜひ食べてもらいたいです。
昼12時~14時
夜18時~21時
月曜定休 2021-02-10 34 大衆食堂 夢の家 大学前駅から徒歩11分ほどで行ける食堂です。
鉄板があり焼き肉が楽しめる他にも、ラーメンや、かつ丼カレーなど地元の特産を使った豊富なメニューがあります。席がとても広くたくさんあるので宴会にも便利です。
昼11時30~14時15
夜17時~22時
月曜定休 2021-02-10 35 長大サミット2/22(月)開催のお知らせ 参加者(発表者、参加者〔学生・市民を問わず〕)を募集しています。
参加団体/登壇者は随時、こちらのページに掲載します。
参加フォーム(受付は終了しました) ①MIZUMATCH
②NIC
③AltuM
④ワカモノLABO@上田
⑤ΓEN(ゲン)
⑥長野大学鉄道研究同好会N鉄
⑦芋川史貴
⑧竹内美里 2021-02-09 36 地域学講座①一次資料から地域をひもとく (1)一次資料から地域をひもとく 16分
講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授)
VIDEO
講座資料(PDF)
(2)上田市公文書館のあらまし 20分
講師:土屋信之(上田市公文書館館長)
VIDEO
(3)上田市公文書館・バックヤード&展示見学 20分
講師:倉澤正幸(上田市公文書館専門事務員)
VIDEO 2021-02-06 37 海雲台 釜山の都心に位置する海水浴場です。 毎年韓国最高の夏休みシーズンの旅行先第1順位に挙げられ、このため7~8月のピークシーズンには全国から押し寄せる観光客で最も混む海水浴場として有名です。 毎年春には砂祭りが開かれ、レベルの高い砂芸術作品が見られ、夏には釜山の海祭りが開かれ、冬には北極熊水泳大会が開催されるなど祭りが多い方です。 2021-02-03 38 長沼 復興光アート アグリながぬまの駐車場付近にある、長沼地区の復興のシンボルとしてりんごを型どったイルミネーションを見てきました。とても綺麗でした。
このイルミネーションは2月28日までやっているので見に行ってみてはいかがでしょうか 2021-02-01 39 山本鼎の資料のデジタル化についての打ち合わせ 8月下旬に鼎の会の方々とマルチメディアセンターの方々に加わって、山本鼎の資料のデジタル化についての打ち合わせに参加してきました。
マルチメディアセンターではおととしからテキストや読み物を中心にデジタル化をやっているとお聞きしました。本物の資料を保管するのにはとても大変なのでやはりデジタル化したほうが良いというお話がありました。本物の資料を展示しておくと劣化してしまうのでデジタル化する方が資料は活用されるのではないでしょうか。 2021-02-01 40 上田市立美術館サントミューゼ 今までの投稿で長野県全体の美術館について探求してきた。今回は上田市の美術館であるサントミューゼについて調べていく。
〈サントミューゼの概要〉
サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館)は、平成26年10月2日に開館しました。大小ホール、美術館、交流芝生広場など、多くの皆さまが芸術とふれあい、人々が交流する場として整備されています。
苗木を植え、育て、木になり、森になる
芸術を通じて感じたこと、体験したことは心のどこかにずっとあり続けます。
森になるには、長い時間がかかります。
でも、まちやひとが芸術や芸術家を通じて感じたことが、このまちの財産となって、いつか大きな木になり、森になってほしい。
サントミューゼがまちとともに続ける活動には、そんな想いを込めています。
2021-02-01 41 その後の探究 データ比較
出典
●総人口、年少人口率、生産年齢人口率、高齢人口率、人口1000人あたり人口増減率、出生率(1000人あたり)、死亡率(1000人あたり):総務省「住民基本台帳人口・世帯数」2020年1月1日現在
●総面積:国土交通省国土地理院測図部「全国都道府県市町村別面積調」2018年
●可住地面積人口密度:https://www.seikatsu-guide.com/compare/20203/38201/1/
●歳入額、歳出額、地方交付税依存度、財政力指数:総務省「地方財政状況調査関係資料」2018年度
○人口 松山市と上田市では総人口の点では松山市が大きく勝るが、年齢別の割合で見ると年少人口率はさほど変わらないが、生産年齢人口率や高齢年齢人口率では上田市の方が少し割合が高く、出生率や死亡率の面では上田市の方が出生率では低く、死亡率では高いことから高齢化が少し進んでいることが 2021-01-31 42 西部地域まちづくりの会について 西部地域まちづくりの会は、住民自治組織として立ち上げられた会であり、私は今年(2020年度)から参加し始めました。西部地域まちづくりの会には4つの部会があり、私はその中の「自然・生活環境部会」の部会員として活動しています。部会は現在月1で行われており、メンバーのほとんどが高齢者となっています。よって、住民として参加している若者は私一人であるため、もっと幅広い世代の方に参加してもらえるような会にしなければいけないと実感しました。 2021-01-31 43 隠れた魅力の発信 上田のelaboration 最終 上田探検、中間発表、個人の調査を経て最終的に「隠れた魅力の発信」というテーマで自分の活動をまとめました。たった数か月の活動でしたが、そこで見つけたことは自分の経験になったと思います。至らない点や説明不足の部分があるとは思いますが、ぜひご覧ください。これらは次の活動に活かしたいと考えています。 2021-01-29 44 昭和二年度西塩田青年団歳入予算(『西塩田時報』第190号(1927年6月1日 4項))) 昭和2年度の青年団の予算が書いてある。
当時はまだ円の価値が低いために、現在よりも格段に小さい数だが、計算方法は現在と一緒である。 2021-01-28 45 現在の海野宿(2021年) 2021年1月27日に撮影した海野宿の写真である。
奧には白鳥神社がある。
写真の一番手前に見えるうだつは、「本うだつ」と呼ばれており、江戸時代の裕福な家に見られたうだつである。
また、屋根の横の白く、黒い横の線が入っているうだつは「袖うだつ」と呼ばれているうだつであり、明治時代の裕福な家に見られた。 2021-01-27 46 チョロギのビート漬 チョロギのビート漬は、上田盆地で縁起物としてお正月の食卓に並ぶものの一つだそうで長老喜とも呼ばれています。
材料はチョロギ、塩、食用ビート、砂糖、酢です。
水洗いしたチョロギに塩をまぶし二日間下漬けした後、ビートと交互に重ね、砂糖と酢で混ぜ合わせたものを注ぎ入れ、20日程漬けると食べごろになるお漬物の一種だそうです。
参考:「信州の味ふるさと料理三〇〇種」長野県農業改良協会 2021-01-27 47 現在の海野町商店街(2021年) 2021年1月27日に撮影した海野町商店街の写真である。
海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。
また、お茶所喜光堂という看板が見える。喜光堂は1882年から操業している、歴史のある店である。
喜光堂の少し先には高市神社がある。
昔(1913年)の喜光堂
URL「 http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3875 」
海野町通り(1913年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ2021-01-27 48 翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁) 翼賛壮年圑:緊急食糧增産確保並労力対策協議会の記事。食糧増産のために中学校から動員するなどの内容。
青少年圑:食糧增産運動の記事。
緊急と名付けられるほどのひっ迫している状態であると考えられ、荒廃地を改善し生産しているがそれでも不足しているのが伝わる。
▼この記事は以下から参照できます。
#947 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁 2021-01-27 49 岡谷蚕糸博物館(1) 「岡谷蚕糸博物館」は昭和39年10月に開館し、製糸機械や製糸経営史料等の展示や、製糸工場を併設して動態展示を行う貴重な博物館である。
館内のミュージアムエリアは主に3つのコーナーに分かれていたため、記事を分けて投稿する。
1つ目のコーナーでは、蚕から絹製品になるまでの流れや、日本・岡谷の製糸業のあゆみ等が大きなパネルにて展示されていた。(写真2枚目)
その中でも、特に目を惹かれたのが「フランス式繰糸機」と「諏訪式繰糸機」の実物の展示である。
写真3枚目が実際に展示されていたフランス式繰糸機だ。これは、官営富岡製糸場に設置された300釜の中の2釜で、日本に残る唯一のフランス式繰糸機である。明治5年(1872)~昭和6年(1931)まで使われていた。
写真4枚目は実際に展示されていた諏訪式繰糸機で、武居代 2021-01-27 50 上田蚕種協業組合事務棟 「上田蚕種協業組合事務棟」は、大正6年から現在(2021年1月)にわたり蚕種製造を行っている会社である。当時は1万4000坪もの敷地があったそうだ。最盛期の昭和40年代には、46億の蚕種の製造販売を誇り、現在は2000万の蚕種を製造している。
蚕種には様々な種類があるが、ここでは日本産と中国産を掛け合わせて、より強い種を生み出している。そして、薬の刺激を与えて約12日後に孵化させる「人工孵化法」を用いて、蚕種を孵化させている。3、4枚目は蚕種の洗い場や、繭をカットして中から蛹を取り出す機械の写真だ。蚕糸業が衰退する中、現役で養蚕を続けている会社があり、尚且つ見学も可能であるというのは、上田が「蚕都」であるからこそできる貴重な体験だと考える。
参考URL: 上田蚕種協業組合事務 2021-01-27 51 九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁) 農會欄の記事。
以前の記事にも記載されていた気象状況の悪さが影響している。作物の病気が発生しており食糧不足の中でとても厳しい状況になっていると考えられる。
また肥料の不足も起きておりやるべき事が多くなっていると思われる。
▼この記事は以下から参照できます。
#946 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁 2021-01-27 52 增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁) 生産に関する水利や代作などについての記事。
植付不能地があれば代作の作付や潅水せず抑制はなしにするなどひたすら食糧を作ることをしなければないような状況になっていることが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#942 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁 2021-01-27 53 六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁) 食糧增産國民皆働ノ件の記事。
中学校や市街地、工場などからも食糧増産のために人が集められていることが分かる。
▼この記事は以下から参照できます。
#941 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁 2021-01-27 54 農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁) 食糧増産のための優良種苗の育成などについての記事。
“本年の不順な氣候は全く未曾有のこと…”とあり気候が悪く食糧生産に懸念があることが示唆されている。
▼この記事は以下から参照できます。
#938 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁 2021-01-27 55 五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁) 農繁期の食糧生産についての記事。
麥(むぎ)や甘藷(かんしょ=さつまいも)の生産量を増やし、農家だけでなく皆で協力して食糧戦に勝とうという内容。
▼この記事は以下から参照できます。
#937 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁 2021-01-27 56 本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁) 公報左下にあった呼びかけ。
3月であるため米の生産はあまりなく切り詰めて供米していると考えられる。
また呼びかけの内容から国のためと戦争協力していたことが窺える。
▼この記事は以下から参照できます。
#934 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁 2021-01-27 57 農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁) 農會欄の記事。
太平洋戦争の開戦から二年三か月ほど経過し、日中戦争からのワード“増産”は変わらないが“決戦”というワードが出始めてきた。
「全村民國民學校を總動員して…」とい内容もあり人手不足も見られる。
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#932 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁 2021-01-27 58 真田祭り 説明
上田城下町で毎年4月末に行われる真田三大をたたえる祭り。真田氏発祥の地として上田市内では真田ゆかりの地が多くある。
用法
上田市の真田資料は16世紀が多いという一つ
参考
https://www.mtlabs.co.jp/shinshu/event/sanada.htm 2021-01-27 59 農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁) 農會欄での“昭和十七年度農業增産に就て”という太平洋戦争の始まりによる食糧確保についての記事。
アメリカとの戦争がはじまり農民には食糧自給から国家食糧の確保という立場に変わり今後の生活が厳しくなっていくことを思わせる記事となっている。
▼この記事は以下から参照できます。
#924 『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁 2021-01-27 60 農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁) 農會欄における食糧增産推進講習會開催などの記事。
中国との戦争による物資不足が見え始めてきたと考えられる。
▼この記事は以下から参照できます。
#920 『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁 2021-01-27 61 上田駅周辺の変化 今回中心として見ていく上田駅は、1888年(明治21年)に官設鉄道の長野駅-上田駅間の開業に伴い、終着駅として開業した。
いままで様々な線の始発駅や途中駅、終着駅として昔から現在まで活躍している。
上記の画像は2021年(令和3年) 1月26日にGoogle Mapで上田駅周辺を見た状況となっている。現在どのようになっているのかが分かる。
今回発見した1922年(大正11年)の上田市全図では、市役所や小学校・中学校などの主要な建物が上田駅周辺に集まっていることが資料から分かった。
また、上田駅が上田停車場と記載されている。この上田停車場という言葉で調べてみると、上田駅お城口を出てすぐの長野県道162号上田停車場線が出てきて、日本一短い県道とされているという情報を知ることができた。
次に発見した1928年(昭和3年)の大日本職業別明細図 2021-01-27 62 2010サマーウォーズの里『信州上田』 ~リアルサマーウォーズデイズ~ 劇中の時間軸2010年7月29日から8月1日までを市内にリアルに再現した。 2021-01-27 63 信州上田サマーウォーズ特別試写会 2009年7月20日に8月1日の全国公開に先駆けて、旧市民会館にて先行上映会が開催された。
先行上映会には市民1200人が参加した。 2021-01-27 64 温泉街の課題① 現状、GOtoトラベルも一時終了し、どの旅館も宿泊客が少ないのが現状である。1月現在、上田市でもコロナ感染者が多くなってきた。そのため、宿泊客の大幅な減少が見られた。高齢層から根強い人気があることは大きな事実である。そのため、新たな客層を開拓する必要があるように感じる。今後温泉街とは長い付き合いになりそうだが、大学生としてどのようなアプローチができるか楽しみである。 2021-01-26 65 だるまとつながりのある群馬県の主なお祭り 高崎だるまの歴史についてまとめた前編はこちらから↓
高崎だるま
①前橋初市まつり
毎年1月9日に国道50号の本町二丁目で行われるお祭りで、前橋では三大祭りの一つとして有名である。別名「だるま市」と呼ばれ、その名の通りたくさんのだるまが売られている。50号沿いだけでなく、すぐ近くの中央通りアーケード(前橋の商店街)でも屋台の出店やイベントが開催されるので非常に賑やかである。
1番の名物は古いだるまを供養して燃やす「お焚き上げ」で、当日はお昼ごろまで多くのだるまと、火と煙を見ることができる。市民の間で、この行為を「どんど焼き(どんと焼き)」と呼ぶことが多い。群馬県では、新年になると各地でこのどんど焼きが行われる。
②高崎だるま市
毎年1月1日から22021-01-26 66 海野町通り(1913年) 1913年(大正2年)に撮影された海野町通りの写真である。
海野町商店街がある場所は海野町通りとも呼ばれている。1913年の海野町通りは海野宿を思わせる町並みをしている。
この写真は、西側から東側に向けて撮られており、荷車や着物姿の子供が多く見られる。
また、左側に「喜光堂茶舗」という名前が見える。これは、現在もあるお茶屋喜光堂の店舗である。
画像は海野町通り,「写真集上田いまむかし:上田市・丸子町・真田町/郷土出版社編」,郷土出版(1980年2月18日),P50より引用
現在の喜光堂
URL「 http://www.d-commons.net/uedagaku/detail.php?id=3954 」
現在の海野町商店街(2021年) りらっくすさんのサイト みんなで作る信州上田デジタルマップ2021-01-26 67 りんご農家のこれから 2019年10月 台風19号災害で被災したりんご農家の方にインタビューをしました。
インタビューによると、今回の台風災害で多くの方との縁が出来たことから「りんごの可能性」に気づき、今後は「オンライン販売」や「リンゴ狩り」といった新しい食体験に挑戦したいと仰っていました。 2021-01-25 68 りんご農家の復興 2019年10月 台風19号災害で被災したりんご農家の方にインタビューをしました。
当時、家や農機具だけでなく精神的にも大きなダメージを受けたという農家さん。そんな中、支えとなったのがボランティアの方やSNSでの励ましのメッセージだったそうです。毎年りんごを楽しみにしてくださっている人をはじめ、今回を機に初めて関わる方々。色んな人からの応援がとにかく励みになったそうです。
今年無事実ったりんごを「恩返し」という形で多くの人に届けたいと仰っていました。 2021-01-25 69 りんご農家の被害 2019年10月の台風19号災害で被災した長沼地域。
今回はそのりんご農家さんにインタビューをしてきました。
インタビューをしたところ、当時は千曲川氾濫の影響でりんご畑だけでなく、自宅や車・農機具までもが濁流に飲まれてしまったという農家さん。仮設住宅での生活を余儀なくされましたが、現在では復旧した自宅での生活をしているそうです。
また、収穫間近であったりんごの8割が濁流に浸かってしまったため廃棄処分。生活の源であるりんごを失ってしまったそうです。 2021-01-25 70 長沼地域 りんご収穫 2019年10月の台風19号災害から1年。
当時はりんごの収穫が続けられるかどうかすら不透明な状況の中、再び長沼地区に足を運ぶと真っ赤なリンゴがたくさん実っているのを目にしました。
農家さんもひとまず安心といったところでしょうか。 2021-01-25 71 台風19号災害ボランティア活動 12月に行った災害ボランティア活動について、また現地に訪れる事で分かった事などをまとめていく。災害ボランティア活動は新型コロナウィルスの影響から長野市役所に集まり、自身の車で各自現地に訪れて朝の9時〜16まで活動していく。今回訪れた住宅では台風19号により住宅が浸水してしまった後に床や畳等を変えたのだが、畳の下の地盤が未だに浸水の影響から水を含んで泥のようになっていたため畳が湿ってしまっていた。そこで当日、ボランティアの方々が畳の下の泥を住宅外に掃き出していく活動を主に行っていき、またガラス戸などに付いた泥の清掃等を行った。1度は住宅を整備した後に、1年以上浸水から経過した住宅の地盤が未だに湿っている事があるのだと気づからされた。また現地の方々や長野市に長く定住している方は、当時の浸水 2021-01-25 72 松尾町商店街について 歴史的変遷の説明の前に、まず松尾町商店街について調べたことを少し紹介しようと思う。
松尾町が誕生したのは明治21年(1888年)であり、今年で133年目を迎える。別名真田坂とも呼ばれている。上田市の玄関として、これまで多くの人が行き来している商店街である。
また、松尾商店街についての情報がまとめられたフリーペーパーがある。2005年から発行されており、今現在も発行され続けている。そのホームページもあり、誰でもネット上で見ることができるため、興味がある方はぜひ見てみて欲しい。
今回改めて自分の目でも松尾町商店街を見てみたが、長い歴史がありこれまでたくさんの人に親しまれてきた商店街と知り、この商店街は上田市にとってとても大切であり欠かせない存在であると感じた。
【参考文献】
フリーペーパー真田坂ホ 2021-01-20 73 「信州上田学」学びの成果発表会(2021/01/24オンライン実施) ★ 「信州上田学」学びの成果発表会 配布/印刷用PDF
日時 2021年1月24日(日) 9:30~12:00
会場 オンラインライブ配信にて一般公開(メイン会場は長野大学リブロホール)
主催 長野大学地域づくり総合センター
来賓 上田市長(予定)、特別講師
オンラインURL 追ってお知らせします。
プログラム
9:30 開会 はじめに
来賓紹介
9:40 第1部 教員による地域協働型研究紹介
「塩田平のため池群における水資源管理の変遷と新たな利用価値の創出」
報 告 者 高橋大輔 環境ツーリズム学部教授
10:00 第2部 学生発表会
10:05 「信州上田学 A」履修生・市民受講生発表
テーマ 地域探検 信州上田デジタルマップ
10:20 「信州上田学 B」履修生発表
テーマ1.福祉の源流を知る、源流に触れる/農2021-01-16 74 公文書利用で始める地域学講座(2021/02/06開講) 【受講申込】受講申込は終了しました。
まちなかキャンパスうえだ市民向け講座(長野大学/ネット利用講座)
市民キュレーション講座「公文書利用で始める地域学講座」
開催期間:2021/2/6, 2/13, 2/20, 2/27 毎週土曜日4回 13:30~16:30
ビデオ会議Meet利用、全国から受講できます。受講される方にはMeet URLをお伝えします。
【講座のお問合せ先】◆は@に置き換えてください。
◎講座申込について 地域づくり総合センター事務局 TEL:0268-39-0007 renkei◆nagano.ac.jp
◎講座内容について 前川道博(長野大学/講座担当) TEL:090-2270-5074 maekawa◆nagano.ac.jp
<講座案内PDF版>
※2頁以降に詳しい説明を載せてあります。
【プログラム】
第1回 2月6日(土) 一次2021-01-12 75 上田市大字常磐城字生塚全図(地籍図 1921年 ) 上田市大字常磐城第弐拾参番字生塚全図(上田市税務課所蔵)
調製 1890年(明治23年)12月
複製 1921年(大正10年)12月
製図者/測量士 馬場亀松(上田市役所地理主任)
曲尺 壱分ヲ以テ一間トス
サイズ:A1版より小さい(A1版の台紙に貼付されている)
上田市大字常磐城(ときわぎ)字生塚(うぶつか)の地籍図である(現在は上田市常磐城四丁目)。地籍図は1889年(明治22年)の市制町村制施行に伴い、上田町大字常磐城(旧常磐城村)の地籍図として1890年作成したものを、1919年(大正8年)、上田町の市政施行に伴い、上田市に書き改めたものである。基本的には1890年と同じである。
★ 上田市大字常磐城第弐拾参番字生塚全図(PDF)1.1MB
2021-01-11 76 小県郡城下村大字小牧全図(地籍図1890年) 小県郡城下村大字小牧全図(上田市税務課所蔵)
調製 1890年(明治23年)5月
縮尺 3,000分の1
サイズ:A1版より小さい(A1版の台紙に貼付されている)
城下村大字小牧(地籍図作成当時、現上田市小牧)の「地籍図」を基に作成した地図。
図版は上田市税務課所蔵の当該地籍図の複写図版を合成し作成したものである。
(データ編纂:長野大学前川研究室)
★ 小県郡上田町全図(PDF)1.2MB
★小県郡上田町全図(高精細JPEG画像)18420×13080ピクセル 115MB
2021-01-11 77 私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ② 『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』通しp732
『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』についての私の意見を述べる。『歯の衛生と農村保健運動とは重大な関係を持つて居ります。』という書き出しにインパクトを感じ選んだ。現在の「歯と口の健康習慣」(6月4日~10日)はこの虫歯予防デーが元である。私は予防医療が浸透した時代に生まれたが、予防医療の発達以前はどのような取組み・姿勢だったのか興味がある。当該記事では『病は口より入る』の諺や『私達の病気は口から入つていくと言つてもいい位で、言はば病気の通路みたいなものと言へる』と、概念的に理解しやすいような記述が見られる。 2021-01-10 78 私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ① 『部落ニュース(昭和12年5月7日)』通しp727~728
私が面白いと思ったのは『部落ニュース(昭和12年5月7日)』だ。部落ごとのあらゆる事柄が記録されている。現在でいう町内会単位での出来事が書かれていることにたいへん驚いた。というのも、決定事項や行事に関する事柄についての記録は現在であれば町内会・自治会で共有される枠を超えることは少ないからである。そういった比較的クローズドな記録が西塩田全域で共有されていることに、地域ネットワークとしての西塩田時報の範囲の広さを感じた。また、昭和12年(1937年)当時は戦時下ということで、女性の連帯組織の活動がたいへん多かったのだと分かる。「倉野」の欄には、「女子消防組」や「パン講習」の記録がある。いずれも戦時下での空襲対策や食糧確保の一環としての講習会であろ 2021-01-10 79 山本宣治 高倉・テル 齋藤房雄 記念碑 別所温泉の交番から安楽寺へ向かう途中右手上に、建てられている。
説明板のテキスト
山本宣治
高倉・テル 記念碑について
齋藤 房雄
昭和初期の大恐慌の中、上小(上田・小県)農民組合連合会が結成
され、小作料値下げ、土地取り上げ反対などの運動に立ち上がった。
これよりまえ、上田自由大学の講師として別所に在住していたタカ
クラ・テル(高知県出身、文学者、日本共産党衆・参議院議員)は
農民運動・民主主義と社会進歩の運動に指導的役割を果たした。
一九二九年三月一日、上小農民組合連合会は第二回総会にタカクラ
の義兄弟にあたる山本宣治(京都府出身、生物学者、労農党代議士
『山宣』)を招く。
この記念講演は「千名を超える聴衆に深い感動を与えた。
この講演から四日後の三月五日、山宣は治安維持法改悪承認の議 2020-12-30 80 HOWTO本(『西塩田時報』第31号(1926年6月1日)1頁) 「乳児の育て方」と言うタイトルで、小さい赤ちゃんの様子から、どの様にお世話したら良いのかが細かく書いてあります。
離乳食のレシピや、外出についてのアドバイスなど、
読んでいてとても面白かったです。
「地域の記録」と言うイメージが強かった為、この様な内容の記事もあるのだなと驚きました。 2020-12-22 81 驚くべき不正肥料(『西塩田時報』第33号(1926年8月1日)4頁) 数多くある記事の中でも、タイトルが目についたのでつい読んでしまいました。
「とんでもない成分が入っていて、ぐんぐん育っちゃう肥料なのだろうか」と想像しながら読んだのですが、
書いてあるのは、
「表示されている成分量と、実際に入っている成分量が違う」という「不正肥料」でした。
今も昔も問題になる事は同じですね… 2020-12-22 82 太平洋戦争における上田地域の状況 上田地域は上田合戦や太平洋戦争など数々の戦いに関わっているが、とりわけ日本の総力を挙げて戦った太平洋戦争では様々なモノ・事・人に影響が出ている。そのような状況を上田地域ではどのようであったのか調査したいと思う。どんな生活だったのか、行政は何をしていたのかなど見ていき当時の戦争を考えていきたい。ネット情報や「西塩田時報」のような資料、国会図書館デジタルコレクション、上田市立公文書館などで戦争に関する資料(農業や徴兵、訓示など)を調べる予定。
「西塩田時報」を中心に調べた結果。
農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)
農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)
2020-12-21 83 北沢大石棒 佐久穂町
説明板より
北沢川の大石棒
今から四千数百年前(縄文時代中期)眼前に広がる南台地に生活していた人々が、動植物の豊穣と人間の甦りを願っての信仰のシンボルとして、豊かに湧きあがる泉のほとりに建立したものと思われる。なおこの石棒は、日本最大のものとして知られている。
[石棒] 二.二三メートル、溶結凝灰岩(佐久石)
[石柱] 柱状節理流文岩
昭和六十二年八月
佐久穂町教育委員会
(※当初の説明板の記述は「佐久町教育委員会」だったと思われます。) 2020-12-20 84 『西塩田時報』第20号(1925年7月1日)2頁 犬に鑑礼をすることを記事にしており、納税人の便宜上各町村長より交付されることが書かれている。少しクスっと笑ってしまった記事であった。
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0088.jpg 2020-12-20 85 西塩田時報第4号 大正13年4月1日 村役場の、土木に関する調査の結果や、小学校で入学した生徒の人数などが記載されている。これにより、この時の西塩田の様子や、どれだけの学生が存在していたかを知ることができてとても興味深いと思う。
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0022.jpg 2020-12-19 86 卒業生の名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁) この記事は西塩田時報に載っていた当時昭和26年3月の卒業生の名前が書かれています。
この記事の面白いところは今では恐らくあり得ないということです。
卒業生の名簿は顔写真が載っていないとしても名前は立派な個人情報です。
今の世の中で例えるならば、新聞にどこの学校を卒業した何組の誰さんと載る訳で様々な親御さんがいる中、このようなことになれば当然のごとくクレームが入るのではないかと思います。
誰でも読むことができる時報に公に個人情報を載せられるのはこの時代だからこそだと思うので、今とは異なるという意味で面白いなと感じました。
▼この記事は以下から参照できます。
#1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁 2020-12-16 87 思い浮かぶまで『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁 この記事はどこか悲しい冬の思いを語られています。
幼いときからの思い出など、冬になると思い出し春が訪れるのを待っています。
▼この記事は以下から参照できます。
#480 『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁 2020-12-15 88 雑草 (『西塩田時報[戦前]』第30号(大正13年12月1日)4頁) この記事は大正13年12月1日に書かれた記事です。
雑草という題名と季節に惹かれて選びました。12月のはじめという冬の寒さを表しており、水槽の水の色も草の色も変わり冬本番を表した記事になっています。
冬の様子や景色など書かれていてとうじの冬を感じられます。
▼この記事は以下から参照できます。
#62 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)4頁 2020-12-15 89 2020年11月4日前橋県庁 前橋市にある県庁前で行われたドラマの撮影を見に行った時の写真。
アップの県庁と、バックの空模様がお気に入り。
この日はとても寒かったような気がします。
撮影では竹内涼真がちらりと見えました。 2020-12-15 90 家庭心得帖 (『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁) 古くなった鏡の手入れや油ビンの洗い方など、日常生活において役立つ様々な情報が書かれている。
また、「ごま汁かけうどん」や「ゆでキャベツのカラシみそ」という美味しそうな料理の作り方まで書かれており、実際に作って食べてみたくなった。非常に読みやすく、家庭に寄り添った記事に興味を持ち採り上げた。
▼この記事は以下から参照できます。
#1206 『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁 2020-12-14 91 ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)3頁) ビタミンについて説明している記事である。(一)ビタミンの人体内に於ける役割、(二)ビタミンの種類、(三)主なるビタミンの分布並に缺乏性という3つの小見出しがある。昭和21年12月25日までに見つかっていた主なビタミンの種類や効果が文章や表形式で分かりやすく説明されている。
ビタミンをVと略していることや、昭和21年12月25日までのビタミンについての情報が分かりやすく書かれていて面白いと思ったため、この記事を採り上げた。
▼この記事は以下から参照できます。
#973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁 2020-12-14 92 夏の料理『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁 家庭で作る夏の料理のレシピを紹介した記事。
「いかの桃和え」や「れんこん飯」「エッグのプラントサラダ茄子のサラド」など馴染みのないレシピが紹介されている。
文字を追って工程を想像するだけでも楽しい。
これを参考にすれば昭和の料理を味わうことができるかもしれない。
名前の間違いがペンで直されているのもレアではないだろうか。
▼この記事は以下から参照できます。
『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁 2020-12-14 93 入学前の家庭教育に就て(『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁) この記事は、親御さん宛に、小学校入学前の子どもに教育しておいてほしいことが書かれている。
親であれば教えているような基本的な内容ではあるが、箇条書きで、マナーから、友達や先生との接し方、家庭での生活に関わることまで、とても細かく書かれていて驚いた。
わたしが小学校に入学するときに「これはできていないとだめ」「せんせいやともだちとはなかよくしなさい」などと教育された覚えがない。当時西塩田地域では記事のように徹底して教育されていたのだろうか。この記事を読んでから、この時代の教育に興味が湧いた。
▼この記事は以下から参照できます。
#976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁 2020-12-14 94 吾が村の養蠶業を探る(『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁) 私の地元である岡谷市でも蚕業が盛んだったため、この記事に興味を持った。
桑芽が予想外の晩霜のため凍害となったことや、広報部員が飼育所を訪問した際に給桑室から楽しそうな合唱の歌声が流れて来たことなどが書かれており、当時の養蚕業の様子を事細かに知ることができる。
▼この記事は以下から参照できます。
#1251 『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁 2020-12-14 95 禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁) 禁酒を勧めている記事である。酒を飲むことで起こる影響が多く書かれている。
一文の終わりが「~ない。」と書かれている文章が多いため、韻を踏んでいるラップ調に見えることと、酒を飲んでだらしなくなった人の様子が想像できるほど、酒による影響が直接的で分かりやすく表現されていて面白いと思ったため、この記事を採り上げた。
▼この記事は以下から参照できます。
#4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁 2020-12-14 96 緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁 緑化運動についての意見が書かれた記事。戦争によって失われた信州の情景の美しさ心の豊かさを説き、気持ちを奮い起こさせている。
『戦いは破壊のみに終つた。』
戦後の景色と人々の思いが伝わってくる最初の一文。
戦後まだ間もない人たちの、緑を、信州を愛する思いに触れ、私たちも今一度、森林問題について関心を向けるべきであると思わせられる。
▼この記事は以下から参照できます。
『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁 2020-12-14 97 第一回女性討論會開かる(『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁) この記事は、昭和23年3月11日に女性のみが集まって行われた討論会の内容について書かれている。
この記事の面白いところは、当時の女性たちの抱えていた問題や、彼女たちの考えを知ることができるという点である。
特に「結婚上の問題について」という項目から、当時らしい寵愛結婚か見合結婚かという議論や、現代でも増えている結婚の簡略化や結婚費用の問題などについて討論されていたことに対して、興味深く感じられた。
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#1009 『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁 2020-12-14 98 広告(『西塩田時報』第193号(1939年12月1日)2頁) 1941年に太平洋戦争が開戦することを考えると、まだ随分豊かな広告が流れていたと思い、気になった。誰に向けた広告なのだろうか。
地主が居たことを考えると、その富裕層に向けたものであるかもしれない。戦地の兵隊のためにこれを購入し送るものもいたかもしれない。 2020-12-14 99 皆様と共に(『西塩田青年時報』第1号(1946年8月25日)1頁) 私が気になったのは、この投稿の内容ではなく、この投稿自体に関してである。左下に原稿募集の文字がある。つまり、これは市民投稿によって成り立つ地域誌であるということがわかる。住んでいる人に寄り添った記事作りもさることながら、一緒に作り上げるという意味でこれは非常に有益であると考える。 2020-12-14 100 『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁 『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。
この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。
この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。
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#9 『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁 2020-12-14