昭和2年に富士―身延間、昭和3年には身延―甲府間の全面開通と同時に電化が完了した。この電化により、汽車運行時より約半分の時間で運行できるようになり、2年の間に旅客人数、旅客収入がともに2倍以上になり利用者が電化をどれだけ待ちわびていたかが分かる。
しかし、その後の会社経営は良好でなかった。その主な理由として、沿線の集落人口が多くなかったこと、身延参詣の乗客が予想以上に増加しなかったこと、工事など建設、設備費への投資によって運賃を上げてしまったことが上げられる。それだけでなく東海道線と中央線の接続線としての利用客が予想以上に多くなかったこと、山間部の土砂崩れや暴風雨による線路の補修工事による出費が重なったこと、そして世界恐慌により貨物輸送が伸び悩んだこと、これらの状況が重なったことにより会社経営もが危ぶまれるようになり、昭和13年に富士身延鉄道は鉄道省に引き継がれる、つまり国営化することが決められ、昭和16年には身延線と名を改めた。
昭和62年には国鉄民営分割化が進み、身延線は東海旅客鉄道、今のJRに継承されることになった。
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投稿者 | chiyetaixin |
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