写真 タイトル 説明 登録日 1 別所線の今と昔の比較(1) この写真は1927年に開通された北東線上田の公園前駅を写したものです。現在は、上田城跡公園のけやき並木となっています。
[参考文献・写真]
上田市ホームページhttps://www.city.ueda.nagano.jp/site/besshosen/5563.html 2022-01-27 2 1 地域探求のテーマと目的 テーマ:旧坂井村と戦争
第二次世界大戦の終戦から76年が経ち、戦争の記憶が若い世代にとって遠いものに感じ始めている。知識としては知っていても、感覚的にどこか遠く感じてしまう。
その理由として「70年以上前のこと」という時間的要因の他に、「自分の身近に感じにくいスケールの大きさ」が要因として考えられる。
小中高それぞれの学校では、日本全体や世界全体の戦時中の出来事を学ぶ機会が多く得られるため、ある程度多くの人が知識として戦争について知っている。しかし、スケールが大きすぎてしまい、どこか他人事の様に感じられてしまうこともある。
そこで、都道府県単位や市町村単位における戦時中の出来事から、戦争をみていきたいと思う。都道府県や市町村ごとであれば、現代を生きるそれぞれの人にと2022-01-27 3 家庭生活の民主化から この記事では終戦後の民主化政策に困惑する女性の意見を知ることができる。男性よりも女性が教育を受ける機会が少なかった当時の状況で「男女同権」を主張する民主主義に対して女性にはあまり受け入れられなかったようだ。
『西塩田青年男報』第5号(1946年12月25日)第一頁より 2022-01-27 4 Cafe bosso 上田駅お城口から徒歩5分のところにあるカフェです。
外観・店内共にオシャレな空間でした(^^) 2022-01-26 5 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~ 古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以 2022-01-26 6 上田紬とは 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のことである。
上田紬は大島紬・結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られている。
絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面が独特の風合いを醸し出している。
作り手の減少により希少価値が高まっているが丈夫で軽く、値段に関係なく基本的には街着の扱いとされている。そのため、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物。
参考文献
https://docs.google.com/document/d/1xn4eb17SZiy6jdQkwIaHX_4cSMqIi7j1lhCLMud9r7s/edit
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/5580.html
https://ichiri-mall.jp/shop/c/cAB/#:~:text=%E7%B4%AC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%AC%E7%B3%B8%E3%82%92,%E3%81%AB%E6%9F%94%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%8F%E9%A6%B4%E6%9F%93%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
https://www.city.ueda.nagano.jp/s 2022-01-26 7 鹿教湯温泉の生まれと発展 成り立ち
一応近くの小学校で鹿教湯温泉について勉強したり
地域の方から話を聞いたりするのですが
最初に僕が教えられてきた歴史としては
狩人が鹿を追いかける→鹿の足に矢が当たる→逃げた鹿を追いかけ続けたところ温泉とそこに入っている鹿を発見する→入ってみたら狩人のケガも治る
といったざっとした歴史というか言い伝えでしたが
信心深い狩人に鹿に化けた文殊菩薩が温泉の場所を教えたという言い伝えが詳しい言い伝えのようです。
小さいときの僕は
「なんでケガさせてきた相手に優しくするんだ?」
と不思議でしたが、ちゃんとした理由があって納得出来て良かったです。
発展
昔も昔は旅人が立ち寄り泊まる場所として、
そして温泉を目当てに来る旅人に宿を提供して発展していったと伝えられました。
今ではトンネ 2022-01-26 8 上田紬とは 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のことである。
上田紬は大島紬・結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られている。
絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面が独特の風合いを醸し出している。
作り手の減少により希少価値が高まっているが丈夫で軽く、値段に関係なく基本的には街着の扱いとされている。そのため、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物。
参考文献
https://docs.google.com/document/d/1xn4eb17SZiy6jdQkwIaHX_4cSMqIi7j1lhCLMud9r7s/edit
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/5580.html
https://ichiri-mall.jp/shop/c/cAB/#:~:text=%E7%B4%AC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%AC%E7%B3%B8%E3%82%92,%E3%81%AB%E6%9F%94%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%8F%E9%A6%B4%E6%9F%93%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
https://www.city.ueda.nagano.jp/s 2022-01-26 9 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~ 古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以 2022-01-26 10 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~江戸時代から戦前~ 古代から中世にかけて信濃の織物として知られていたのは、麻布であった。(中略)紬は屑繭等を原料として地機で織れたから、原料生産地がそのまま織物生産地となり得た。しかもそれは商品としてよりも、農村で自家用として織られている場合が多かった。
紬は、江戸時代の庶民に許された唯一の絹織物であった。
上小地方の蚕糸業は江戸中期を過ぎる頃から、1つは養種製造、もう一方は生糸生産へと重点が移っていった。江戸中期にすぐれた繰糸技術が取り入れられ、良質の生糸が生産されるようになった。その結果蚕種・生糸の生産で十分な利益を挙げることができるのであれば、手間のかかる機織をする必要はない。このようにして幕末期に近づくに従って、上小地方の上田紬・上田縞の生産は減少していった。
さらに安政6年横浜開港以 2022-01-26 11 犬もヒトと同じ扱い!? ヒトだけが戦争に動因されるのではなく犬も戦争に協力させられてた!?
今でこそペットというイメージが強いが当時は軍犬になっていた…
ヒトだけでなく犬も戦争には散々…
参考文献:https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf
写真4-2 勝つために犬の特別攻撃隊を!と呼びかける隣組回報
昭和19年11月 八王子市郷土資料館提供 2022-01-26 12 洗い場 別所温泉には温泉を利用した洗い場が14ヶ所。
洗濯専用の洗い場があるのはおそらく別所温泉だけらしいです。
利用者はかなり減ったりましたが、現在でも根強いファンがいるために毎日利用されているのだそうです。
参考文献
別所温泉財産区公式サイト
(https://www.besshoonsen-zaisanku.com/) 2022-01-26 13 温泉の歴史 別所温泉は1400年続く信州最古の温泉と言われており、歴史で確認できるのは825年(天長2)からで、人々の旅の疲れを癒やす憩いの場として各地に知られるようになったと考えられています。
1547(天文17) 大湯普請
1622(元和8) 大湯・玄斎湯・お茶屋が藩主湯治利用施設となる。
(湯治とは温泉宿に長期滞在して病気治療を行うこと)
1881(明治1) 年間宿泊・入浴客が2万2千2百人
1902(明治35) 別所温泉事務所開設。
1933(昭和8) 別所温泉協会創立。
1960(昭和32) 大湯改装工事
2008(平成20) 旧あいそめの湯が3月30日で撤退。
新あいそめの湯5月2日より開館営業。
2012(平成24) 足湯大湯薬師の湯完成。
そして別所温泉とその周辺には多くの「国宝」「重要文化財」級の文化遺産が残され、文化財の宝庫として全国 2022-01-26 14 上田紬とは 紬とは、紬糸を平織りにした絹織物で作られた着物のことである。
上田紬は大島紬・結城紬と並ぶ日本の三大紬として知られている。
絹特有の光沢を持つ生糸とは違い、紬糸で織られた生地は落ち着いた光沢と凹凸のある表面が独特の風合いを醸し出している。
作り手の減少により希少価値が高まっているが丈夫で軽く、値段に関係なく基本的には街着の扱いとされている。そのため、普段着やちょっとしたおしゃれ着におすすめな着物。
参考文献
https://docs.google.com/document/d/1xn4eb17SZiy6jdQkwIaHX_4cSMqIi7j1lhCLMud9r7s/edit
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/5580.html
https://ichiri-mall.jp/shop/c/cAB/#:~:text=%E7%B4%AC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%AC%E7%B3%B8%E3%82%92,%E3%81%AB%E6%9F%94%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%8F%E9%A6%B4%E6%9F%93%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
https://www.city.ueda.nagano.jp 2022-01-26 15 飲泉搭について 3か所の外湯の近くには引用専用の「飲泉搭」があります。
飲泉搭は
石湯前、北向観音参道、大湯前の3つありました。
1つ目の石湯前の飲泉搭には「真田幸村公 隠しの湯
2つ目の北向観音参道には「慈覚大師之湯」
3つ目の大湯前には「木曽義仲ゆかりの葵の湯」
と書かれていました。
飲泉搭の横には注意書きがあり以下のようにあります
・温泉飲用の1回の量は一般に100〜150ml程度とし、その1日の量は200〜500mlまで
・食前30分~1時間がよい
・夕食後から就寝前の飲用はなるべく避ける
・15歳以下の方は原則的に飲用は避ける
実際に飲んでみると少し熱くて硫黄の匂いがしてゆで卵を食べているような気分になりました。
適量飲むことで健康にもいいそうです。
糖尿病、痛風、便秘などの効果も期待できるそうです。 2022-01-26 16 小島大池(こじまおおいけ) 小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。
下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。
騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。
なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。
なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工 2022-01-26 17 空池(からいけ) 空池は、1734年5月に西前山の庄屋児玉伝兵衛がため池を造る許可を上田藩に願い出たことで作られた。1737年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が動員され、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出された。
しかし、水が思うようにたまらず1736年4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、1737年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまった。
現在は公民館と付近の畑が池の跡地である。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php 2022-01-26 18 手洗池(てあらいけ) 手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。
昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。
ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談した 2022-01-26 19 山田池(やまだいけ) 山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。
池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。
この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php 2022-01-26 20 ため池の歴史③ この資料から、塩田のため池がいつ頃造られたものなのか読み取ることが出来る。
真田氏の時代(1622年まで)には、山田池、舌喰池、小島池、甲田池などの広大な池が修造築または新築された。
そして、仙石氏の時代(1706年まで)には、手洗池、上原池、上窪池、山田新池などが造られた。この時代は、どの大名も領内の新田開発に力を入れた時代であるため、仙石氏もため池の築造・修造に力を入れたことが分かる。
松平氏の時代(1867年まで)に造られたため池は小さいことが見受けられるが、この時代のため池政策は、従来のため池の堤塘の高さを増し、貯蓄量を増大させるものであったからである。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php 2022-01-26 21 上田映劇の内装 上田映劇は映画撮影やライブなどに合わせて一部改装されたりしているそうだが、建物自体は大正6年に建築されてから変わっていないため、歴史を感じる事が出来る建物となっている。
2014年に上映された「晴天の霹靂」のメイン舞台となっていたため、入り口には雷門ホールと看板が立てられたりしていた時期もあった。しかし、あくまで映画のセットとして付けられたものということもあり、耐久性が高くなく昨年撤去されたのこと。
上田の市街地に建てられていることもあり建物の横幅が広くないため、外側から建物を見ても建物自体が大きく見えない。だが、奥行きのある建物となっているため、シアターに入ってみるとシアター内の広さに驚かされる。
シアター内は一階と二階の二つに分かれているが、現在は安全上の問題で一階のみ利用可 2022-01-26 22 ため池の歴史② ため池は農業用水を確保するためだけに使われていたと思っていたが、歴史を遡るとそれ以外にも利用されてきた歴史があった。
例として挙げられるのは食用鯉の養殖である。塩田地域のため池は水温が高く、養蚕が盛んであったことから、鯉の餌としてたんぱく質の豊富な蚕の蛹が多く採れた。このような地域特徴から鯉の養殖に使われてたが、1980年代末には鯉の養殖は衰退し、今はフナの養殖に非常に少数のため池が使われているだけである。
〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続
https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf 2022-01-26 23 上田映劇の歴史 昭和まで 1917年に末広座跡に上田劇場が開館した。
当時は芝居、落語、講談、浪曲、歌謡などが催された。
上田劇場の前身となるのは末広座だが、末広座の開館日は不明である。
しかし、1912年の上田町地図に末広座、中村座が載っているとのことから
1912年以前に開館されていたと思われる。
1922年に発行された「上田市街明細図」に上田劇場、上田電機館、中村座が載っている。
1919年に「上田演芸館」というのも開館されたとされているが
詳しい場所の情報が無いため、上田市街明細図から探し出すことが困難だった。
昭和初期(1926~1932?)頃に上映するものを映画中心とし、
上田映画劇場と名称を変更。
1960年代後半 映画の人気がピークに至る。
1964年 桟敷(さじき)席から現在の椅子席(270席)に改築された。
映画館の話題から少 2022-01-26 24 上田紬に「興味を持ってもらう」 上田紬に興味を持ってもらうために、「上田紬を軸とした旅行プラン」を提案します。
・新幹線代(出発地が北陸新幹線沿線の場合)+着付け代(ゆたかやさんに依頼)(+宿泊の場合ホテル代)を込みにしたプラン
・紬割:対象店舗・スポットに紬姿で行くと割引などのサービスを受けられるようにする。旅行客に「上田紬でめぐる」おすすめスポットを載せた地図をプレゼントし、掲載地が紬割対象。地図は上田駅・上田城周辺、別所温泉を中心に作成。
・オプションとして+1000円で別所線の1日フリーパス
・Instagramの活用:Instagram広告の利用、「#上田紬」キャンペーン(#上田紬をつけてに上田紬に関する写真を投稿してくれた人の中から抽選でギフト券や上田市ゆかりの品をプレゼント)
☆多くの人、特に若い世代に上田紬を知ってもらう 2022-01-26 25 別所温泉の利用者数の推移 2002年~2020年の別所温泉の利用者数を調べ、グラフにした。
2002年からゆるやかに減少しているが、2016年に大きく増加している。理由としては、2016年に放映されたNHK大河ドラマ「真田丸」の放送で上田地域の知名度が上がり、利用者が増加したことが考えられる。
2020年は新型コロナウイルスの影響で利用者が大きく減少している。
出典:観光地利用者統計調査/長野県https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoki/sangyo/kanko/toukei/riyousya.html 2022-01-26 26 つけば漁で獲れる魚 「つけば漁」では、季節によって獲れる川魚が異なり、6月末まではハヤ(ウグイ)、7月から10月まではアユが獲れる。
「つけば漁」について調べる前は、なぜこのような魚たちが勝手に集まるのかと疑問に思っていたが、上田地域は千曲川の中流域で、ハヤなどの生息に適している地域ということが分かり、さらに、魚が集まるための場所を作る漁師さんたちの努力の賜物だということも知ることが出来た。
<参考>
上田市 「千曲川のつけば漁」上田市ホームページ
(https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/nosei/2544.html) (2022-1-24 閲覧) 2022-01-26 27 会見之地 真田と徳川の合戦のなかで国分寺が登場するのが第二次上田合戦。この地で1600年9月(慶長5年)「国分寺の会見」が行われたとされている。真田が徳川秀忠の軍を足止めしたことで秀忠は関ヶ原の戦に間に合わず、後の家康と秀忠の関係に影を落としたそう。 2022-01-26 28 比較から見る上田市工業の強み 上田市の隣には、機械・金属工業の中小企業を中心とし、優れた技術力を持つ坂城町がある。工業の分野が似ている両市町には、どのような違いがあるのか。
今回は坂城町と上田市それぞれの工業統計調査を参考にし、それらを比較するための指標として、平成30年における両市町の[①事業所数②従業者数③製造品出荷額④現金給与総額]四つを用いてみた。
《上田》 《坂城》
① 390事業所数 204事業所数
② 18890人 6068人
③ 52,667,396万円 22,748,130万円
④ 9,066,947万円 2,874,596万円
上記からもわかるように、精密機器や機械・金属という主要製品が同じでも、上田の方が製造品出荷額と現金給与総額が高い。これは事業所数・従業者数が上田の方が多いことに加え、大企業の工場を有していたり 2022-01-25 29 上田市の位置は工業向き ・日本のほぼ中央に存在するため交通インフラが良い
鉄道:JR北陸新幹線・しなの鉄道・上田電鉄別所線(上田駅で接続)
高速道路:上信越自動車道(菅平インターチェンジ)
東京から約190km(北陸新幹線で最短80分)
県庁所在地長野市から約40km
[参考資料]
上田ってどんなところ?-上田市ホームページ(https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/uedapr/5606.html) 上田市ホームページ 上田市 上田市長 土屋 陽一 2022/01/19参照 2022-01-25 30 壮行會 こちらの記事は小學校での行事を示した記事である。
今と少し異なるところが5月27日と3月10日に行われた行事だ。
5月27日には海軍記念日として登山を、3月10日には陸軍記念日として記念講話を行っている。これらはどちらも軍を重んじた行事であり、小學校からこのようなことが行われていたと言うことを生の資料から受け取ることができた。
記事はこちらから
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0078.jpg 2022-01-25 31 徴兵 こちらの記事は徴兵検査の結果についての記事である。やはり戦争ということで徴兵についての記事は多く見受けられた。徴兵検査の結果や徴兵適齢届の存在、また、小学校で兵士の壮行会が行われていたり徴兵検査の心得等々多様なものを発見することができた。
一つ疑問に思ったは、1枚目と2枚目からわかる通り、徴兵令が出されており届出をしないと罰せられるのにも関わらず、結果として31名中10名(6名が無名とあるため16人までの可能性あり)という少し低めな合格率であることだ。徴兵として集められても合格できなかった人は一体何をして過ごすこととなるのだろうか。
記事はこちらから
1枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0006.jpg
2枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0016.jpg
3枚目:https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0060.jpg
4枚 2022-01-25 32 美味だれを深く掘り下げる。 すりおろしたニンニクが入った醤油ベースのたれに焼き鳥をつけたり、焼き鳥にたれをかけたりして食べるものである。昭和30年代に、上田市内の焼き鳥店で考案され、市内の家庭や店舗に広まったとされる。さらに、たれにすりおろしたリンゴが加えられるなど、店舗ごとに個性的な味が生まれていった。 2022-01-25 33 上田工業の歴史 ①蚕のまち上田
江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県経済は蚕糸業に支えられていた。上田はそんな長野県中でもいわゆる「蚕都」として名をはせていた。その要因としては、扇状地や河岸段丘の発達により桑の栽培適地であったこと。また、雨が少なく乾燥した気候が蚕の飼育に適していたこと。そして全国にさきがけて開校された、小県蚕業学校(現在の上田東高校)や上田蚕糸専門学校(現在の信大繊維学部)などによる蚕業教育が充実していたことが挙げられる。
②精密機械工業へのシフト
長野県が戦前から養蚕・製糸業に代えて精密機械工業へと産業育成の重点をうつし、かつ終戦後の1960年代には高度経済成長で商工業が発展したこともあり、上田の蚕糸業(養蚕、蚕種、製糸)も例外なく衰退を迎えた。しかし蚕糸業で培われた技術的 2022-01-25 34 信濃国分寺本堂 本堂は1829年(文政12年)に発願、1840年(天保11年)に起工、1860年(万延元年)に竣工した。近世の堂としては東信地方最大の建造物で、彫刻にみられる鋭い彫りや、絵様に江戸時代末期の特徴があらわれているそう。 2022-01-25 35 生活に必要な山道 最後は生活するのになくてはならない山道。
山の上に家や畑、工場がある場合に必要になる道だ。
県道186号が通る、長大の裏の山の道が分かり易い。
夏に一度訪れたが、山の上には畑や家屋が立ち並んでいた。
他の場所からこの山道を通ることはそうそうないとは思うが、この地域で生活をしている人にとっては必要不可欠な道だ。
自分が気づいていないだけで、その地域に住んでいる人にとって欠かせない山道は多そうだ。 2022-01-24 36 観光地へのアクセスのための山道 ドライブスポットと多少被る面もあるが、より観光色の強い山道。
主に登山やウィンタースポーツ、キャンプなど山でのアウトドア活動をするのに必要不可欠な道である。
国道406号やビーナスライン、チェリーパークラインなどが該当するだろう。
冬季は観光客が訪れやすいようにする為か、よく除雪がなされていることも特徴として挙げられる。
美ヶ原のように通行止めがされていても、どこかしら一本は通れるようにしてアクセスを可能としているところもある。
写真はビーナスラインの車山登山道入り口。 2022-01-24 37 信州は山の国 信州も信濃も、ほとんどいまと同じ長野県のことだと、初めて知りました。
信濃の地名は、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」「級」(しな)に由来しているとされ、名付けられ方で分かるとおり、坂と峠の多い県です。
長野県は、四方八方を2,000~3,000m級の山々に囲まれたまさに山国。県面積は、1万3,562.23平方キロメートル。(境界未明含む)全国第4位の広さです。
総人口は206万5,359人 (2,018年7月1日時点)ですが、
人口密度は1平方キロメートルあたり152.3人で、全国で下から9番目と少ないことも、山国の特徴。
県のほぼ全域が標高500メートル以上、
可住地面積の割合が低く、また人口密度(1平方キロメートルあたり)も152.3人と全国で第38位にランクインするぐらい少ないなど、山国の特徴が顕著に出ています。
特に、妙高山(2,454 2022-01-24 38 山道と雪 色々な山道を走ってきて、特に雪道の状況の違いがあるなと感じた。
国道406号なら、上田側はアスファルトが見えるくらい除雪・融雪していたのに対し、須坂側はほぼ白一色だった。
この場合は北側である須坂の方が降雪量が多い、カーブが多く除雪のしにくい等の理由があるのではないか。
同じような時間帯に通っても、ある場所は凍っていて、ある場所は路面が乾いていることもあった。
その日その日の天候や気温、高度、山の北側か南側かなど多くの要因が複雑に作用しあっているため、違いの法則性を見つけることは難しそうだ。 2022-01-24 39 冬の菅平 厳しい寒さで有名な菅平だが、冬場のアクセスについて考えてみる。
前の記事で書いた通り、冬季は県道34号が通行できなくなる。
そのため、長野市から直通で菅平に行くことができず、須坂のほうまで迂回しなければならない。
また、国道406号は通行止めが無いとは言っても、須坂側は勾配がきつくヘアピンカーブも多いため、お世辞にも走りやすいとは言えない。
対して上田側はきついカーブが少なく、雪量も比較的少ないので、アクセスがしやすい。
雪道において走りやすい、不安要素が少ないことは、明らかな上田側のメリットである。 2022-01-24 40 国道406号、須坂側 こちらは須坂側の様子。
写真から分かるように、路面に雪が残っている。
この日は上田から上って須坂に下り、帰りは須坂から上田にという感じで走ったが、須坂側は明らかに路面上の雪が多かった。
道幅は上田側と比べると若干狭いように感じられた。
晴れていたこともあり、まるで天に繋がっているかのような景色が見られた。 2022-01-24 41 菅平高原 菅平高原は上信越高原国立公園に属し、冬の寒さが厳しい土地。
数多くのスキー場があり、冬季はウィンタースポーツを楽しめる。
県道34号長野菅平線が冬季通行止めとなり長野市からのアクセスはできないが、国道406号を使い上田市・須坂市からのアクセスが可能となっている。 2022-01-24 42 国道406号、上田側 上田側から国道406号に乗ってすぐ、チェーン脱着ができるようなスペースで撮影。
時刻は11時くらい。
除雪がしっかりされていて、冬用タイヤならば楽々通行ができる。
除雪された雪が端に固まっているので、非降雪時と比べると道幅は狭くなっている。
しかし、もともとの道幅が広いので、対向車とのすれ違いに問題が出ることは無さそうだ。 2022-01-24 43 菅平へ 上田から菅平に行きたいのならば、この交差点を左折して国道406号に乗ることで行くことができる。
この道をずっと行くと、途中で以前紹介した菅平ダムの横を通り過ぎる。
また、右折をすると鳥居峠やなかざわを通る、嬬恋方面の道になっている。 2022-01-24 44 上田藩の死者数、正福寺の千人塚 千曲川流域には、「戌の満水」の流死者供養塔が幾つも残されている。それには2種類ある。一つは、多くの犠牲者を出した現地に建てられたもの、もう一つはたくさんの流死者が流れ着いて埋葬された場所に建てられたものだ。千曲川の上流では、上畑村(佐久穂町・248人)小諸城下(小諸市・507人)所沢川流域の金井村(東御市・130人)田中宿・常田村(東御市・68人)などで多くの流死者を出した。そして、まず大量に流れ着いたのが、上田だった。
「千曲川も上田まで来ると、流れが緩やかになる。上流から流されてきた死体が上田に流れ着いた。上田藩主の命令で段丘上の秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して、後に碑を建てた。それが千人塚と呼ばれている。また正福寺境内には石造地蔵尊があり、縁者がたくさん亡くなっ 2022-01-24 45 戌の満水とは 長野県千曲川流域の歴史的な洪水として、仁和4(888)年の洪水、弘化4(1874)年の善行寺地震の後の洪水がよく知られている。ところが、寛保2(1742)年の洪水「戌の満水」は、全国的にも近世以降最大の水害と呼ばれているのに知らない方が多い。
その理由の一つとして、昭和16(1941)年に連続堤防が完成、大きな水害が激減し流域住民の洪水への恐れ、関心が急激に薄れてきていることが挙げられる。しかし、寛保の洪水が「未曽有の水害」「前代未聞の水害」といった表現のまま、流死者など具体的な被害実態が集計されてこなかったため、訴える力が弱かったこともある。
流死者は2800人前後に達することが明らかになり、長野県内で被害が大きかった「三六災害」の死者は107人、不明が29人である。現在の 2022-01-24 46 渋温泉街~多様な温泉~ 温泉街を歩いていると、銭湯を多く見かけた。調べてみると、九湯めぐりたるものが体験できるらしい。
渋温泉には、地元の人が毎日利用する外湯(共同浴場)が九つあります。 昔から大切に守られてきた外湯を渋温泉に宿泊するお客様にも解放し、渋の湯の恵みを楽しんでいただけるのが「九湯めぐり(厄除巡浴外湯めぐり)」。
それぞれ源泉や効能が異なる外湯を、祈願手ぬぐいにスタンプを押しながらめぐります。
最後に温泉街を見下ろす「渋高薬師」へ参詣して印受すれば満願成就。
九(苦)労を流し、厄除け、安産育児、不老長寿のご利益があるといわれています。
歴史を感じる外湯のたたずまい、好みの肌触りのお湯を見つけたり、湯船での人々との語らいもまた、九湯めぐりの醍醐味です。
(https://www.shibuonsen.net/onsen/より引用)
筆者 2022-01-23 47 梅翁寺 このお寺は湯田中温泉の守護発展のために、1688年に薬師如来を本尊として別峯宗見(べっぽうそうけん)和尚様が来られて建てられた。境内にある手水舎(ちょうず)は龍をもした彫刻であり、その口からは温泉が流れる。
また平成22年5月8日に全国初となるお湯につかるお地蔵さん「延命湯けぶり地蔵尊」が建てられた。大きさは1メートルほどで、片足だけお湯につかることで温泉の持つ霊力を吸収しているとされておる。そのお地蔵さんの肩や腰などを湯に浸した白布でさすることによって温泉の持つ効用が伝わり、ぴんぴん・しゃんしゃんと元気になるとされるぴんしゃん地蔵手拭いと呼ばれる参拝が行われている。 2022-01-23 48 湯田中駅周辺~楓の館・楓の湯~ 楓の館は昭和2年4月28日に開業した旧湯田中駅舎をリニューアルしたものである。
旧湯田中駅舎は志賀高原につなんだ山小屋風で、当時としてはとてもモダンで大変人気であった。
現在は駅舎としては利用されておらず、交流室や展示室として利用されている。
国土の歴史的景観に寄与しているとして、昭和2年に有形文化財に登録された。
この旧駅舎に楓の湯と呼ばれる温泉が隣接している。大人は300円で入湯できる。
またその旧駅舎前には無料で解放されている足湯がある。筆者は保育園の頃遠足で訪れ入った記憶がある。 2022-01-23 49 『蚕かひの学』藤本善右衛門保右著1841 ▼蚕かひの学(デジタルアーカイブ資料)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11D0/WJJS05U/2000515100/2000515100100050?dtl=all
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
藤本善右衛門保右(やすすけ 1793-1865)が残した養蚕技術書。1841年(天保12年)に著し改版を重ねました。息子の縄葛もその改訂に携わったのではないかと推察をします。「信州地域史料アーカイブ」に収録された『蚕かひの学』はネットに公開された希少な一次資料です。
蚕種製造家は、蚕種を製造するだけでなく、教養に優れていることが蚕種の信用の保障となり、蚕種を販売しながら養蚕技術書を販促ツールとして活用したことがわかります。2022-01-12 50 藤本善右衛門(昌信・保右・縄葛) 「上田を支えた人々 上田人物伝 藤本善右衛門(昌信・保右・縄葛)」
https://museum.umic.jp/jinbutu/data/028.html
(上田市マルチメディア情報センター)
ネットで藤本善右衛門を検索すると参照ページは意外に少なく、現時点ではWikipediaにすら記載されていません。ほぼ唯一、内容を知ることができるのがこの記事です。説明文は『上田市誌第28巻』の「藤本善右衛門」を要約した内容になっています。
「上田地方を蚕種製造の全国的な中心地に発展させた功労者」として紹介されています。藤本善右衛門は蚕種製造を営んでいた上塩尻の佐藤本家の当主の襲名です。代々の当主のうち、特に業績のあった昌信(1722-1773)、保右(1793-1865)、縄葛(1815-1890)が紹介されています。
縄葛は1845年、蚕種の新品種「掛合」を育成し「明治初年の蚕種輸出の大変盛んだった時 2022-01-12 51 端山貢明デジタルアーカイブプロジェクト PDFファイルはプロジェクト概要資料
★端山貢明(はやま こうめい)
作曲家、メディア研究者
1932-2021、東北芸術工科大学名誉教授
長野大学・前川道博研究室が中心となり、端山貢明氏の知識資源を共有・可視化するデジタルアーカイブプロジェクトをささやかにスタートさせています。
▼端山貢明アーカイブについて(前川ゼミにて)2021/06/21
VIDEO
端山氏が山形と自宅に残した資料を整理し、段ボール箱50箱に仮に収納しました。
2021年6月、前川ゼミでプロジェクトの概要を説明し、資料の一部を学生にも見てもらいました。
▼端山貢明アーカイブ作成記録2021/10/16
VIDEO
10月には、段ボール箱1箱に収めてあった東北芸術工科大学在任中の資料群(1995-98芸工大時代の文書)を仕分け、デジタルアーカイブ化しました 2022-01-07 52 可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」 2022年1月に、可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」を以下の内容で作成しました。
2022年2月開催の「舌喰池水鳥観察会」やさまざまなイベント・活動で、この看板(看板の画面サイズ:横幅200cm×高さ100cm、看板の脚を含む高さ160cm)を活用する予定です。
■看板作成:
長野大学地域づくり総合センター「信州上田学」地域連携パートナー事業 舌喰池水鳥観察会
■監修:
長野大学環境ツーリズム学部 高橋一秋教授
■デザイン・鳥類データ(2016年~2021年に舌喰池で調査)・写真(塩田平ため池群で撮影)・イラスト ・解説(出典:原色 日本野鳥生態図鑑<水鳥編>(保育社)、山渓カラー名鑑 日本の野鳥(山と渓谷社)) :
高橋一秋・大和田樹里・三枝広樹・横内はるひ(写真加工)・小猿夏海(イラスト作成)・豊田雄基 2021-12-27 53 旧坂井村と戦争 地域探求テーマ:旧坂井村と戦争
西上田事報などをこれまで調べてきた際に、戦時中に地方の地域ではどのようなことが起こっていたのか、地域ごとにどれほど戦争によって被害を受けてきたのかを知ることができた。
第二次世界大戦の終戦から76年が経ち、戦争の記憶が若い世代にとって遠いものに感じ始めている。戦争と地元地域を絡めて探求していくことで、より身近に、自分ごとに戦争や自分の出身地域について考えることができると感じた。
また今回は旧坂井村(現・筑北村坂井)の地域を対象としていきたい。
アウトプットの時点では、戦時中の状況を現在に置き換えるなどして、読者がより自分ごとに分かりやすく感じることができるものを目指す。
参考文献:坂井村史
但し著作権等について確認がまだ取れていないため、変更す 2021-12-23 54 上田の蚕種業 【上田の養蚕業】
江戸の末期から昭和にかけ、全国一の養蚕地帯でった長野県。特に上田地方は千曲川から広がる桑の栽培に適した地形と降水量の少ない養蚕に適した気候、そして蚕種の改良から日本一の蚕種製造地帯であった。中でも上田盆地は春蚕の生産地であり、松本盆地の夏秋蚕と対比されていた歴史がある。
【上田の蚕種の歴史】
-蚕種の始まり-
長野県では上田地方がいち早く、藤本善右衛門家によって1661年~1673年に蚕種製造がはじめらた。
上田地方の蚕種製造は
①奥州産蚕種を仕入れ販売(仕入種)
②奥州へ出向き蚕種製造(手作種)
③自家製造(地種)
と順を追って成長し全国に販路を広げていく。
-蚕種製造が盛んになった背景-
① 江戸時代、経済が発達による養蚕業や織物業の奨励
② 蚕種・養蚕・製糸の分業化
この 2021-12-22 55 太郎山民俗遊歩 太郎山民俗遊歩とは、太郎山にまつわる伝承をいくつか紹介するものです。登山者に登山を楽しんで貰うと同時に、そういった伝承が失われないようにするねらいがあるそうです。実際に現地に行くことでより楽しめると思うので、是非行ってみてください。全部で9つあります。 2021-12-22 56 標高605m 上田駅発の菅平線バスに乗り、揺られること20数分…
スポットライトに照らされた「幸村の里」の大きな看板を目印に、降車を決意しました。
降りたのは「殿城口」というバス停でした。
この写真は、歩道を歩いていて目に入ってきた看板を撮影したものです。上田市は上り坂も下り坂も多く、山の上にいる事を体感しますが、こうして看板を見ると、より山の上にいることを実感します。 2021-12-15 57 可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」 2022年1月に、可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」を以下の内容で作成しました。
2022年2月開催の「舌喰池水鳥観察会」やさまざまなイベント・活動で、この看板(看板の画面サイズ:横幅200cm×高さ100cm、看板の脚を含む高さ160cm)を活用する予定です。
■看板作成:
長野大学地域づくり総合センター「信州上田学」地域連携パートナー事業 舌喰池水鳥観察会
■監修:
長野大学環境ツーリズム学部 高橋一秋教授
■デザイン・鳥類データ(2016年~2021年に舌喰池で調査)・写真(塩田平ため池群で撮影)・イラスト ・解説(出典:原色 日本野鳥生態図鑑<水鳥編>(保育社)、山渓カラー名鑑 日本の野鳥(山と渓谷社)) :
高橋一秋・大和田樹里・三枝広樹・横内はるひ(写真加工)・小猿夏海(イラスト作成)・豊田 2021-12-21 58 上田城散策① 真田石 大きな石垣が目を引く真田石。真田信之が父の形見として持って行こうとしたが微動だにしなかったという言い伝えがあるそう。どこの石垣を見てもそうだが、どういった技術で石をこんなに高く積んだのかとても気になる。 2021-12-21 59 別所神社 熊野本宮大社の分霊のため、鎌倉時代(1190~1199年の間)に「熊野社」として建てられた。その後、天和2年(1682年)に現在の場所に転移建設され、明治11年(1878年)に「別所神社」に改称された。 2021-12-21 60 米久肉店 アリオ前にある、お持ち帰り専門の焼き鳥屋「米久肉店」。こちらでは信州上田の名物である「美味だれ」を焼き鳥にかけて食べることが出来る。1本60円という低価格で、私は「もも・ねぎま」を計20本ほど購入した。
家へ帰宅し、容器を開けてみると、焼き鳥と美味だれの香りがぶわっと広がり、食欲がさらにそそられる。お肉は絶妙な焼き加減でぷりぷりしていて、甘いたれがよく合い、いくらでも食べられてしまいそうだった。
注文は早めに電話をしたほうがいいと思う。 2021-12-21 61 塩田平 地形 塩田平は典型的な盆地であり、かつて湖であった場所が産川や浦野川によって埋め立てられたものと考えられている。また、特徴的な地形として、鴻ノ巣バッドランドが挙げられる。バッドランドとは、「無数のかれ谷が密に深く刻み込まれ急斜面の斜面と、細かなひだが入り組む複雑に発達した水系網を特徴とする地形」(引用) 地質を反映した地形[国土地理院]バッドランド (2021/12/21閲覧) である。
写真の黄色くマークされた場所は、鴻ノ巣バッドランドの場所である。もう一枚は、地理院地図3Dの鴻ノ巣バッドランド3D地形である。
参考・出典
地理院地図Vector[国土地理院]鴻ノ巣バッ 2021-12-21 62 塩田平 観光 塩田平には生島足島神社や安楽寺、前山寺に代表される多くの寺や、神社があり、それを観光資源として利用している。また、別所温泉という温泉もあり人気の観光地となっている。
写真は前山寺。
参考・出典
[上田市]信州上田観光情報/温泉エリア
(参照 2021/12/20)2021-12-21 63 塩田平 気候 日本有数の寡雨地域であり、内陸性の気候であるため夏は平均気温は高い。冬は気温は低いものの、雪はあまり降らない。また、内陸性の気候によって年較差が大きく、盆地特有の気候によって日較差も大きい傾向にある。日照時間も全国平均より長い傾向にある。寡雨地域であることで、過去には養蚕が盛んになったり、ため池が多く作られたりした。
写真は日照時間に影響される太陽光発電の写真と、ため池の多さを示した地形図である。
参考・出典
長野県地方気象台/長野県の気候
地理院地図Vector[国土地理院]上田市地形
(参照 2021/12/20)2021-12-21 64 塩田平 農業 主に稲作が盛んで多くの田が見られる。しかし、一様にただけでなく畑作も見られる。また、高地には果樹栽培も見られる。塩田平の農業の特徴は、なにより多くのため池による灌漑であるだろう。塩田平という地域は日本でも有数の寡雨地域である。この地図は、塩田平の地形図と土地利用についての地図である。多くのため池が確認でき、ため池の周りでは稲作、山の麓に行くにつれ畑作が多くなっていることが読み取れる。
参考・出典
地理院地図Vector[国土地理院]地形と土地利用
(参照 2021/12/20)2021-12-21 65 塩田平 工業 塩田には多くの工場が存在する。この写真はその中の一部の写真である。上田市は、最大5000万円の助成金なども出し、積極的に企業誘致を進めている。
参考・出典
上田市-工場等設置事業助成金
(参照 2021/12/20)2021-12-20 66 《上田市に主力工業を置く企業①》山洋電気株式会社 関連会社など(国内):県内三つ・東京・北海道・宮城・栃木・山梨・石川・静岡・愛知・京都・大阪・広島・福岡
関連会社など(国外):中国・台湾・韓国・タイ・インド・シンガポール・ジャカルタ・アメリカ・フランス・ドイツ
主力製品:精密機器
・クーリングシステム(冷却ファン,ファンユニットなど)
・パワーシステム(太陽光発電システム用パワーコンディショナ,無停電電源装置 (UPS)など)
・サーボシステム(サーボモータ・アンプ,ステッピングモータなど)
参考資料
山洋電気株式会社 (https://www.sanyodenki.co.jp/) 山洋電気株式会社 代表取締役会長 山本 茂生 代表取締役社長 児玉 展全 2021/12/13参照 2021-12-20 67 [上田市に本社を持つ企業⑥]松山株式会社 関連会社など(国内):県内三つ・北海道・宮城・栃木・岡山・熊本・宮崎
主力製品:水田や畑の改良整備や耕起などの用途の作業機
参考資料
ニプロ 松山株式会社(https://www.niplo.co.jp/) 松山株式会社 取締役社長 松山 信久 2021/12/13参照 2021-12-20 68 別所温泉駅② 別所温泉を出てすぐには古い電車や名物のおはぎやだんごを売っているお土産屋さんが2つほどあり、少し遠いですが下っていくとあいそめの湯という温泉もあった。この付近はかなり道が綺麗にされていた。
逆に坂を昇っていくと別所温泉遊歩道になり、石湯などいくつかの温泉や北向観音があった。標識がいくつか建っていて、外国語表示のものもあり観光地としてかなりいいと思った。しかし、駅を出て遊歩道に向かう途中から道があまり舗装されておらず歩きにくい印象を得た。舗装されているのが駅前の少しの範囲だけなのでそこを改善出来たらいいと思う。また、フィールドワークで来るまでおはぎやだんごが名物として売られていることすら知らなかった。 2021-12-20 69 仙石氏と松平氏の歴史 仙石氏は三代から五代目の上田城の城主を務めました。三代目城主の仙石忠政が関ヶ原の戦い後に破却された上田城を再建させ、現存する西櫓もこの時に建てられた貴重なものとなっています。
松平氏は六代から十二代目までの城主を務めました。その間実に160年余りであり、上田城の歴史の半分以上が松平氏が治めていたことになります。主に千曲川の洪水によって破損したがけの石垣の設置や、地震による石垣と櫓の修復工事などが行われていました。 2021-12-17 70 冬の美ヶ原 一面の銀世界に圧倒されてしまう、雪の美ヶ原。
空気もより一層澄んでいるように感じる。
トレッキングシューズでも意外と歩きにくい。
雪は硬めでずっしり感があり、木も雪がこびりついて重そうだ。
広大な美ヶ原で一人お昼を食べる、新鮮な体験もできた。
雪道を走れる自信がある人は防寒対策をしっかりして、冬の美ヶ原を訪れてほしい。
現地でしか味わえない自然の美しさに圧倒すること間違いなし。 2021-12-17 71 冬の美ヶ原へ 美ヶ原へのアクセス方法はいろいろあるが、上田側からだと美ヶ原公園西内線を通るか、白樺湖からビーナスラインを通るかになるだろう。
冬季はこれらの道路は通行止めになってしまうが、ある道を使えば美ヶ原まで行くことができるのだ。
いざ、冬の美ヶ原へ。
2021ビーナスラインの通行止め情報
https://www.venus-line.net/wp-content/uploads/2020/10/64f68c5e9c36db96d0eb29ed5cf7d3f8-1.pdf 2021-12-16 72 土地部について『西塩田時報』第61号(1928年12月1日)1頁 戦後の土地の使い方について、関心が寄せられていることがわかる 2021-12-15 73 鍛冶職人の世界 鍛冶職人を集めて住まわせた上田の鍛冶町では、1706年の記録によると、32軒の鍛冶屋があった。それが、明治末には半数以下に減少してきた。
一人前の鍛冶職人になるためには、親方のところに弟子入りして、一定の年季をかけて修行した。これを徒弟制度といいい、親方は弟子に厳しく技を仕込んだ。
鍛冶町の鍛冶屋では、桑こき、稲こきや馬耕用の犂先なども生産したが、回して開ける柏錠もよく作られた。 2021-12-15 74 ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)4頁) 「ビタミンの話」というあまり見かけない話題にまず惹かれた。
記事の下には6種類のビタミンが表で示されている。書かれている食材が昔っぽいのもまた面白いなと思うし、すごく細かく詳しく書かれているので、きっとこの記事が役に立ったんだろうなと感じた。
https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0973.jpg 2021-12-15 75 参院選挙投票率は79% (『西塩田公報』第38号(1950年6月5日)1頁) この記事は、参院選の投票率と結果について書かれている。個人的に面白く感じた点は、「投票余談」の部分だ。その当時、何を考えて投票したのかが具体的に書かれており、面白く感じた。
▼この記事は以下から参照できます。
#1091 『西塩田公報』第38号(1950年6月5日)1頁 2021-12-15 76 「青少年学徒に賜りたる勅語」(『西塩田時報』第190号(1939年9月1日)1頁) 昭和天皇の勅語を掲載した記事。この前年に国家総動員法が発令されたことがあり、これを含めて戦争一色となっていることがわかる。また、この日はドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した日であり、欧州においても戦乱が広がり始めることになるが、それ以前よりこのようにあらゆる分野の記事で挙国一致、戦時体制の確立を訴えていることは、日中戦争がいかに長期化していったことを示すものだと考えられる。 2021-12-14 77 入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁) 初等科一年生を受け持つ先生が保護者へ向けて書いた、入学前までにできるようになっていてほしいことを示したもの。カタカナの読み書きの習得から毎朝顔を洗うなんてことまで書かれている。
今の新聞ではあまり見られない記事で、当時と今の新聞の在り方の違いが感じられる。
さらにタイトル横の“父兄の皆様”という言葉も最近は聞かなくなったなと。
▼このページは以下から参照できます。
#976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁 2021-12-14 78 「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁 「武士道は死ぬことと見つけたり」という有名な言葉が目にとまり、その後のこの言葉をオマージュしているのを見てとても興味をそそられた。ことわざと実数値を使い食事という者の重要性をとき、人間的な生活の成立を軸に記事が立てられている。食事という行為について考えさせられる記事だ。#16 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)2頁 2021-12-14 79 さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁) この記事は西塩田時報の最終刊の投稿である。
西塩田時報が地域で長く親しまれ人々に影響をどれだけ与えてきたのかが分かる内容だった。
西塩田時報がどれだけ優れた公報だったのか、どのような苦労や地域との関わりがあったのか読んでいてとても面白かった。
最終刊にあたり長く親しまれてきた公報が戦争を受けた言論統制以外での理由で廃刊を受けた人々の惜しい気持ちが当時の西塩田時報の立ち位置を示しているようで興味深かった。
▼この記事は以下から参照できます。
#1346 『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁 2021-12-14 80 ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁) 記事では、ビタミンは人間が生きていくうえで不可欠な物質であるとした上で、摂取すべき食材が各ビタミンごとに示されている。
ビタミンB1不足によって起こる脚気はかつて国民病であったというが、戦後になって知識が広まり、食料不足も次第に解消されたことで、ようやく解決に向かったのだろう。
▼この記事は以下から参照できます。
#973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁 2021-12-14 81 通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁) 通知表の評価についての小学校からの説明である。
「うちの子の評価がいつもより低いのはどうしてだ」というクレームを受けての記事だという。
しつこい保護者はこの時代にもいたんだなと思った。
▼この記事は以下から参照できます。
#31 『西塩田時報』第5号(1924年6月1日)3頁 2021-12-14 82 雪國 (『西塩田時報』第27号(1926年2月1日)4頁) これは長野県の新聞社主催のスキー講習会の記事です。スキー自体は戦前からあったものと知っていたのですが、大正時代から今現在まで長野県で有名なスポーツとして楽しまれていることに文化としての完成度の高さを感じました。また、長野県も雪國としてふさわしい地なのだと思います。 2021-12-14 83 悲しみ多し(『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁) これには自分や周りの人に対するふがいなさ、情けなさが書かれている。しかし終わりには「いまにみろ。」と強い言葉がある。
弱い者が自分や人に対してイライラすること。「ただ言われっぱなし、やられっぱなしなのではなく、いつか見返してやる日のために耐えているのだ。」と心の中には闘志がある様子。これらの見下されている人間の心情がよく感じられとても心引かれる記事だった。
▼この記事は以下から参照できます。
#71 『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁 2021-12-14 84 趣味に就いて(『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁) この記事の作者は人々に趣味を見つけることを勧めている。趣味を見つけることで良い友情を結び、視野を広げ、豊富な経験や知識を効率的に持つことができると書かれている。
まるで現代文の教科書を読んでいるような気分になり、私も趣味を見つけて人生を豊かにしたいと思った。
▼この記事は以下から参照できます。
#984 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁 2021-12-14 85 『火事』( 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁) 地震・火事・雷は恐ろしく、地震と雷は不可抗力であるが火事はまったく不可抗力ではない。といったことが述べられている。
お互いに注意をすれば火事を未然に防ぎ、もし起こったとしても被害を最小限に抑えられるという小さいことだがとても大切なことであると気づかされた。
この記事は以下から参照できます
#957 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁 2021-12-14 86 地方選挙に望む『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁 選挙の理由や意義または仕組みなどが書いてあった。選挙の制度が地方選挙では村長・議会議員・知事などを決める。選挙に出るものは私的な欲望ではなく、村の代表として信頼される人物が望ましいとも記述してあった。
今でも選挙が行われており、昔の名残も残っているように感じ、面白いと思った。
『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁 2021-12-13 87 デジタルアーカイブの作業様子 今回、10月20日(水)から10月29日(金)のうちの5日間にかけて、塩尻小学校の郷土資料館にて、デジタルアーカイブの撮影が行われ、そのお手伝いをさせていただきました。ただ撮影をするだけでなく、道具を撮影するためのスタジオのような場所を作るなどの工夫を行いながら撮影が行われ、そういった道具や資料などの実物をデジタル化するにあたってのやり方を学ぶことが出来ました。 2021-12-13 88 タイムカプセル!塩尻小学校郷土資料館の撮影 10月20日~10月29日にかけて、塩尻小学校の郷土資料館に保管されている資料・道具の撮影を行いました。
このプロジェクトは、過去に使用されていた道具・地域資料のデジタル化を行い、地域の文化伝承を促すために発足されました。
今後、撮影した写真(資料)ごとに解説を添えたwebサイトが解説される予定です。
保管されている道具は大変数が多く、興味深かったです。 2021-12-13 89 ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁) この資料は、上田市営運動場という場所で行われた体育大会の様子を記している。上田市営運動場という場所を調べて見たがどの施設のことを指しているのかがハッキリしなかった。というのも、この運動会が開催された昭和15年(1940年)には上田城跡公園陸上競技場はあったが、当時から陸上競技場という名で呼ばれていたと思われるため(勝俣英吉郎の銅像に記されている碑文に陸上競技場と記されていることから)、運動場という名前で新聞に載せるかどうかが怪しいと判断したためである。この体育大会では現在も競技として残っている100M走や800Mリレーの他に、バトンの代わりに俵を用いたリレーや手榴弾投という現在にはあまり聞かない競技が記されている。
現在の新聞では大会が開催されたことを掲載する際は、結果しか載せないことが多い 2021-12-13 90 中間報告 2021-12-12 91 家庭心得帖『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁 「家庭心得帖」というタイトルで、包丁のサビのとり方
や料理のレシピなどが掲載されている。
西塩田時報の記事の中にとても家庭向けの内容が書いてあったので驚いた。
この記事は以下から参照できます。
#1198 『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁 2021-12-11 92 朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁) 私が興味を引かれたのは、「朝鮮人の結婚式」という記事。
これは朝鮮人の結婚形態を日本との違いも踏まえて紹介した記事だったが、興味を引かれたポイントはその内容ではなく、この記事が発行された年。
この記事が発行されたのは大正13年(西暦1924年)で、大正12年の朝鮮人大虐殺が起こった関東大震災の一年後だった。関東では朝鮮人への憎悪が残っていたであろうこの時代に、地方では朝鮮人の和やかな記事が出せたというのは、当時はそれだけ都市と地方が隔絶していて情報が行き届いていなかったのだろうか、とか、地方の人々はそもそも他人事で憎悪を感じていなかったのか、といういくつかの推測を私に抱かせた。
真偽のほどは不明だが、歴史的背景を含めて考察ができるというのも、貴重な価値を持つ文献だと思った。
この記事は以 2021-12-11 93 渋沢栄一伝記資料 第五十七巻 渋沢栄一(1840-1931)が地元青年の要望を受け、大正6(1917)年に小諸を訪れ、演説した時の速記記録です。原文を読み解き用として編集し、振り仮名や単語の意味などを付属して掲載しています。
※主催:特定非営利活動法人 糸のまち・こもろプロジェクト
【渋沢栄一小諸講演】~フォーカス読み解き会の際に作成・公開 2021-12-06 94 長沼地区 歩き2 以前はまだ色付いてはいなかったが、今回再び訪れてみると沢山のリンゴが赤く色づいていた。今年も収穫が行えそうだった。 2021-11-08 95 菅平ダム 上田の降水量が少ないために、昭和41年から昭和43年にかけて建設されたダム。
菅平発電所もともに建設された。
あまり水が貯まっているようには見えなかったが、降水量が少ないからなのだろうか。
長野県公式HPによると、5月初旬ごろに満水になり、放流も運用開始から10数回程度しかしていないそう。
全国でもまれな利水ダムということで、発電や灌漑に使われている。 2021-12-01 96 附属図書館のelaboration(中間発表資料) 左上から順番にA班、B班、C班、D班の資料です。 2021-12-01 97 神川小学校山本鼎の部屋 26日に神川小学校の山本鼎の部屋にお邪魔し、昔の神川小学校の児童が書いた作品の名札作りと名札貼りの作業を行いました。 2021-11-29 98 桑の実ジャム 桑の実の収穫時期は6月中旬~下旬。
養蚕業で栄えていた上田ならではのジャムが、この「桑の実」ジャムです。蚕を育てるために、桑の木がたくさん植えられ、実る桑の実を使って、みすゞ商店さんの試行錯誤の末に生み出された品です。
年によって桑の実の収穫量が異なるため、生産量が限られる期間限定品です。 2021-11-24 99 六文銭 この六文銭を見ると、上田っぽい、と思うことがある。街のマンホール、花壇、道路の標識などあちこちに六文銭が潜んでいる。街を歩いていてこれを見つけるとニヤッとしてしまうのだ。 2021-11-23 100 小諸唱歌 《1番の歌詞》
いざ(や) 友どち 共々に
我町々を 東より
西また 南北のくま
散歩ながらに 巡り見ん
作詞:池田芦舟、星野香山
作曲:長尾亥三太
1905(明治38)年作詞・作曲
1926(大正15)年改訂・追加作
VIDEO 2021-11-22