| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 | | 戦前長野の農業形態⑥ | 当時に比べると長野でのイチゴは果物の中だとあまりメジャーではないように思われるが、輸送手段や保存方法が当時に比べると発達したため、他地域での生産もさかんになったからではないかと考える。
戦前の長野での農業について共通点も多く見られたが、現在と違う点も多くとても興味深いと感じた。農業に関して調べるうちにジャムのルーツにも触れることができ有意義な学習であった。 | 2023-01-28 |
2 | | 戦前長野の農業形態⑤ | 栽培されたイチゴは鮮度の問題から近郊には青果として、遠方には貯蔵できる形としてジャムにすることで販売していたようである。
この資料に加え、長野のジャムに関して調べてみたとこ
ろ、明治10年新宿で初めて日本でジャムが作られ、その四年後に企業として初めてジャムが作られた地が長野であり、長野は日本のジャム生産の先駆的な地のようだ。
信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/629fa7724c1f448586380935d789259b.jp2/651,655,2070,3016/333,485/0/default.jpg
「日本におけるジャムの歴史」
http://www.sudo-jam.co.jp/tokusyu/20140210 | 2023-01-28 |
3 | | 戦前長野の農業形態④ | 次に紹介したいのは私がこの資料を閲覧していて一番興味を引かれたイチゴについてである。現在の長野ではあまりメジャーな果物ではないように思われるが、資料にあるように当時、長野で栽培されたイチゴはイチゴジャムとして使われていたようである。 | 2023-01-28 |
4 | | 戦前長野の農業形態③ | こちらは大麻に関する記載である。大麻といっても工芸作物の麻のことであり、麻袋や畳に使うようである。栽培方法や適する条件等も記載されている。栽培に関する条件は比較的緩いようだ。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/f65cc121f9b64b6cbf76b0a27d25cebd.jp2/493,541,4771,3136/852,560/0/default.jpg | 2023-01-28 |
5 | | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
6 | | 戦前長野の農業形態① | 信州デジタルコモンズにて見つけた「信農産業誌 完」には戦前、およそ明治20年~40年辺りの長野の農業に関しての特徴や収穫高のようなデータが記載されている。現在の農業形態と比べると違った面が見られる。興味深いものがいくつかあったのでピックアップしていきたい。 | 2023-01-26 |
7 | | 6 松根油の生産について | 画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載
http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg
年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。
興味を感じた理由は下記の二つである。
①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。
②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。
村誌内の記述
下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。
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松根油
昭和20年に入ると、松根 | 2022-01-29 |
8 | | ため池の必要性 | そもそもなぜ塩田平にはため池が必要だったのでしょうか。それは、全国でも有数の寡雨地域であったからです。雨が少なく年間の降水量は890mmであり、稲作をするときに必要と言われる降水量である1000mmを下回ります。そのため、稲作をするためには厳しい土地でした。幸い、土壌は元々塩田平は湖であったことなどから肥沃だったため、水が足りないという課題を灌漑で解決すれば稲作ができました。用水路を使った灌漑などが長野では多いですが、塩田平を流れる川は、どれもたくさんの農地を潤すほどの水量はありませんでした。そこで、塩田平ではため池灌漑という長野県では珍しい灌漑方法がとられています。
参考:ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
| 2022-01-26 |
9 | | 山田池(やまだいけ) | 山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。
池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。
この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
10 | | ため池の歴史② | ため池は農業用水を確保するためだけに使われていたと思っていたが、歴史を遡るとそれ以外にも利用されてきた歴史があった。
例として挙げられるのは食用鯉の養殖である。塩田地域のため池は水温が高く、養蚕が盛んであったことから、鯉の餌としてたんぱく質の豊富な蚕の蛹が多く採れた。このような地域特徴から鯉の養殖に使われてたが、1980年代末には鯉の養殖は衰退し、今はフナの養殖に非常に少数のため池が使われているだけである。
〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続
https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf | 2022-01-26 |
11 | | ため池の数 | 塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。
昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。
塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php | 2022-01-26 |
12 | | ため池の歴史① | 塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。
〈参考文献〉
信州上田の里 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
13 | | 野沢菜漬け | 野沢菜の発祥は、一説には野沢温泉村にある健命寺の8代目住職が宝歴6年(1756年)に京都から持ち帰った天王寺かぶの種を寺畠にまいた際、その天王寺かぶの種から違った形のかぶ菜ができ、その後、系統選抜をして育てたものが最初とされていましたが、
この説は近年の研究で、天王寺かぶの系統ではないというDNA鑑定の結果が出ており、かぶに由来する別の変種と考えられています。
野沢菜漬けの材料
野沢菜80g、塩2.5~2.8kg、醤油1.8L、酒または焼酎1.8L、だし昆布、唐辛子
一般的な作り方としては、洗う、塩水に漬けるを繰り返しその後発酵・熟成させると出来上がるようです。
漬けて2~3週間後から食べられますが味の安定は1か月かかるそうです。
参考文献:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会、「信州の発酵食」小泉武 | 2021-02-10 |
14 | | 第二次農地改革に就て(『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁) | 農地改革に関する記事。
戦後日本で行われた政策のひとつである農地改革の実際の内容を見て取れる。
これにより土地を得た人と取り上げられた人がいることが良くわかる。
農地委員か地方長官の許可がないと取得・取り上げが行えず行政の管理下に置かれている。
▼この記事は以下から参照できます。
#963 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)1頁 | 2021-02-10 |
15 | | 本秋の麥作に就て(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁) | 麥作に関する記事。
各農家へのお願いが書かれている。
食糧危機ながらも乗り越え、稲作も順調に進んだとあり、食糧不足に光明をもった様子。
肥料不足は続いている模様。
▼この記事は以下から参照できます。
#955 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)1頁 | 2021-02-10 |
16 | | 事業部の構想(『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁) | 戦後、西塩田青年団報となった。
「事業部の構想」の記事。
終戦後の復興に向けた心構えや意気込みが見て取れる。
食糧不足も続いており、遊休土地の利用や未利用資源の活用などぎりぎりの状況である。
▼この記事は以下から参照できます。
#952 『西塩田青年団報』第1号(1946年8月25日)2頁 | 2021-02-10 |
17 | | 農會欄(『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日1頁) | 農會欄の記事。
戦況の激化に伴い、輸送船や国内外の食糧が不足していること。増産のための肥料・資材がなくそれでも増産をしなければならないという苦しさが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#949 『西塩田村公報』第11号(1943年11月10日)1頁 | 2021-02-10 |
18 | | チョロギのビート漬 | チョロギのビート漬は、上田盆地で縁起物としてお正月の食卓に並ぶものの一つだそうで長老喜とも呼ばれています。
材料はチョロギ、塩、食用ビート、砂糖、酢です。
水洗いしたチョロギに塩をまぶし二日間下漬けした後、ビートと交互に重ね、砂糖と酢で混ぜ合わせたものを注ぎ入れ、20日程漬けると食べごろになるお漬物の一種だそうです。
参考:「信州の味ふるさと料理三〇〇種」長野県農業改良協会 | 2021-01-27 |
19 | | 翼賛壮年圑・青少年圑(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁) | 翼賛壮年圑:緊急食糧增産確保並労力対策協議会の記事。食糧増産のために中学校から動員するなどの内容。
青少年圑:食糧增産運動の記事。
緊急と名付けられるほどのひっ迫している状態であると考えられ、荒廃地を改善し生産しているがそれでも不足しているのが伝わる。
▼この記事は以下から参照できます。
#947 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)3頁 | 2021-01-27 |
20 | | 九月の增産暦(『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁) | 農會欄の記事。
以前の記事にも記載されていた気象状況の悪さが影響している。作物の病気が発生しており食糧不足の中でとても厳しい状況になっていると考えられる。
また肥料の不足も起きておりやるべき事が多くなっていると思われる。
▼この記事は以下から参照できます。
#946 『西塩田村公報』第10号(1943年8月25日)2頁 | 2021-01-27 |
21 | | 增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁) | 生産に関する水利や代作などについての記事。
植付不能地があれば代作の作付や潅水せず抑制はなしにするなどひたすら食糧を作ることをしなければないような状況になっていることが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#942 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁 | 2021-01-27 |
22 | | 六月の常會(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁) | 食糧增産國民皆働ノ件の記事。
中学校や市街地、工場などからも食糧増産のために人が集められていることが分かる。
▼この記事は以下から参照できます。
#941 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)1頁 | 2021-01-27 |
23 | | 農會欄(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁) | 食糧増産のための優良種苗の育成などについての記事。
“本年の不順な氣候は全く未曾有のこと…”とあり気候が悪く食糧生産に懸念があることが示唆されている。
▼この記事は以下から参照できます。
#938 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)2頁 | 2021-01-27 |
24 | | 五月の常會(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁) | 農繁期の食糧生産についての記事。
麥(むぎ)や甘藷(かんしょ=さつまいも)の生産量を増やし、農家だけでなく皆で協力して食糧戦に勝とうという内容。
▼この記事は以下から参照できます。
#937 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)1頁 | 2021-01-27 |
25 | | 本村供米-九割-(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁) | 公報左下にあった呼びかけ。
3月であるため米の生産はあまりなく切り詰めて供米していると考えられる。
また呼びかけの内容から国のためと戦争協力していたことが窺える。
▼この記事は以下から参照できます。
#934 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)4頁 | 2021-01-27 |
26 | | 農會欄(『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁) | 農會欄の記事。
太平洋戦争の開戦から二年三か月ほど経過し、日中戦争からのワード“増産”は変わらないが“決戦”というワードが出始めてきた。
「全村民國民學校を總動員して…」とい内容もあり人手不足も見られる。
▼この記事は以下から参照できます。
#932 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)2頁 | 2021-01-27 |
27 | | 農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁) | 農會欄での“昭和十七年度農業增産に就て”という太平洋戦争の始まりによる食糧確保についての記事。
アメリカとの戦争がはじまり農民には食糧自給から国家食糧の確保という立場に変わり今後の生活が厳しくなっていくことを思わせる記事となっている。
▼この記事は以下から参照できます。
#924 『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁 | 2021-01-27 |
28 | | うちいれ | うちいれは(画像右)上田盆地の懐かしいふるさとの味として愛されていたようですが、地粉が手に入りにくくなったことや手間がかかることから現在は忘れられて来てしまっている料理だそうです。
材料は、小麦粉、かぼちゃ、はくさい、にんじん、だいこん、じゃがいも、煮干し、みそを使用し作られ多くの野菜が入った麺料理です。
お米の少なかった昔に夜食としてうちいれがよく食べられていたそうです。
※うちいれの写真は本に掲載されていなかったため上田市真田町にある「真田庵」で提供されているうちいれをネットから
参照URL:さなだんごの旅 真田ファンの旅づくり応援サイト
参考図書:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会(p.342) | 2021-01-27 |
29 | | 農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁) | 農會欄における食糧增産推進講習會開催などの記事。
中国との戦争による物資不足が見え始めてきたと考えられる。
▼この記事は以下から参照できます。
#920 『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁 | 2021-01-27 |
30 | | ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか? | 画像は上田市の「舌喰池」
ため池とは、雨量が少なく河川がない地域などで、灌漑用水を確保するために人の手によって作られた池である。また、ため池の多くは江戸時代以前に築造されたものである。
塩田に数多のため池が作られた理由も、降水量の少なさが原因である。しかし、降水量が少ないという事は、晴天の日が多いという事でもある。塩田は気温や肥沃が良好で、用水さえ確保できれば水田農業に適している土地であった。従って、農民達は塩田にため池を造成したのである。
参考文献
ため池のれきし - 信州上田|塩田の里|とっこ
ため池:農林水産省 | 2021-01-25 |
31 | | 太平洋戦争における上田地域の状況 | 上田地域は上田合戦や太平洋戦争など数々の戦いに関わっているが、とりわけ日本の総力を挙げて戦った太平洋戦争では様々なモノ・事・人に影響が出ている。そのような状況を上田地域ではどのようであったのか調査したいと思う。どんな生活だったのか、行政は何をしていたのかなど見ていき当時の戦争を考えていきたい。ネット情報や「西塩田時報」のような資料、国会図書館デジタルコレクション、上田市立公文書館などで戦争に関する資料(農業や徴兵、訓示など)を調べる予定。
「西塩田時報」を中心に調べた結果。
農會欄(『西塩田村公報』第1号(1941年3月30日)2頁)
農會欄(『西塩田村公報』第3号(1942年2月15日)2頁)
| 2020-12-21 |