写真 タイトル 説明 登録日 1 京城日報での13回忌の記事 こちらは昭和5年12月5日の京城日報です。11/12の冒頭に、志津衛13回忌の法要が行われた記事が掲載されています。出火当時の様子や、その人柄、その後の家族の様子まで詳しく書かれています。外地であるはずの京城でも日本と同じように新聞が発刊されていること、当時の事件や広告記事など、現在とあまり変わりがないことに驚きます。
祖父俊三が京城大学在学中で、野球をしていると記載されています。上の兄たちとともに鈴木三兄弟と野球で有名だったそうです。 2022-02-24 2 外地との行き来 志津衛の三男、祖父の俊三は大柄で、運動神経抜群。
京城中学校が甲子園に出場した時、ホームランも打っています。
外地の学校も、船で日本に遠征していた時の写真です。
甲子園での第12〜14回に出場し、成績も残っています。
12回大会は大正15年(1926年)なので、志津衛殉職の後7年後のこと。写真には手書きで、1927年とありますので、13回大会の時のものと思われます。
大正天皇は12月25日崩御なので、この年はすでに昭和2年の和暦となっています。
日本と京城間は、頻繁だったことに驚きます。 2022-02-24 3 まとめ・参考文献 【まとめ】
今回は本を読む時間をとることができなく、ネットでの情報のみとなりましたが、楽しみながら調べることが出来ました。しかし物語についての情報はあったのですが、詳しい情報はすぐに見つけるのが難しく、計画的にやっておくべきだったと後悔しました。
【参考文献】2022/2/15参照
祈り岩〔源平屋島合戦古戦場〕|高松市
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/shiseki/inoriiwa.html
扇の的弓道大会|日光の伝統行事|日光観光ライブ情報局
http://nikko.4-seasons.jp/festival/function_detail.shtml?0:41
郷土の誉れ那須与一|大田原市
https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082771858/
玄性寺 大田原市観光協会 栃木県大田原市の観光案内
https://www.ohtawara.info/spot_detail.html?id=6
那須与一が愛したお寺:即成院|レンタサイクル京都ecoトリップ 2022-02-15 4 那須与一に関係するイベントなど 『扇の的弓道大会』
中禅寺湖に浮かんだ船の上の扇を的とした弓道大会です。毎年約1500人が参加します。私も中学生の時に参加したことがあり、先輩から先頭の船に乗っている巫女の人形の名前はキャサリンだと教えられました。根拠はないため、ひとつの噂話として頭に入れていただけるとうれしいです。
場所→栃木県日光市中宮祠
日時→8月4日 8:00~15:00
『与一弓道大会』
那須与一の偉業を顕彰するための大会です。中高生の参加者は県北地区居住者に限られます。的が扇型になっています。
場所→大田原市福原玄性寺与一弓道場
『大田原与一まつり』
那須与一を称えるまつりです。昼の部には武者行列、子供みこしが、夜の部には与一踊りがあります。令和2年度から令和4年度の3年間休止されています。
『扇の 2022-02-15 5 イナゴを食べる 平成 25 年 12 月に、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。
長野県の伝統的な食文化であるイナゴについてもおいしく食べて楽しく学ぼう!
〈農林水産省も推奨!!イナゴの佃煮の作り方〉
1 いなごは熱湯をかけ、足と羽を取り、よく水洗いし、水切りをする。
2 熱したフライパンにいなごを入れ、弱火で3~5分空煎りする。
3 鍋に砂糖・醤油・酒を入れて煮立て、いなごを入れ、強火で煎り煮する。
4 汁気がなくなる直前に、みりんを入れ照りをだす。
5 汁気がなくなったら火を止めて塩をからめる。(カラっとする)
6 ※いなごの足はすり鉢ですりつぶし味噌、砂糖などお好みの味でいなご味噌を作る。
7 ※いなごの下処理の別法:いなごをとった布袋のまま、熱湯でゆでた後、 2022-02-15 6 じまん焼きの歴史と比較 引用 「富士アイス下諏訪店」で自慢焼き・上田店と食べ比べ
https://simple-yuumin.com/wp-content/uploads/2018/04/IMG_3920-2-e1522716309126.jpg
上田のソウルフードの一つであるじまん焼きを作っているのが富士アイスという店だ。富士アイスは上田以外に長野県にいくつかある。岡谷店と下諏訪店だ。富士アイス上田店は昭和10年にオープンに対して岡谷店は昭和48年創業、そして下諏訪店は昭和58年に始まっており、割と最近になってから開業した。下諏訪店はあんこの水分が上田店より少ないなど、店によって皮とあんこの固さに違いがあり、それがまた個性となっている。
参考文献
「富士アイス下諏訪店」で自慢焼き・上田店と食べ比べ
https://simple-yuumin.com/fujiaisu-3044 2022-02-14 7 日米和親条約と日米修好通商条約 出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。
日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼 2022-02-14 8 善光堂 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 9 マジックミシン この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成16年の新アーケード建設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 10 ポケットパーク この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 11 ムラタ靴屋 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 12 梅花堂 寺島理容館 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二.三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 13 白木屋 魚民 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二.三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 14 ルイ,サンク この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 15 MARUGEN はなおかストア この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 16 上田デパート この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 17 やおふく 小波 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 18 宮尾眼鏡店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 19 富士アイス 松田時計店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 20 海野町会館 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 21 カメラ東京 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 22 キムラ自動車商会 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 23 セシモ洋服店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成16年の新アーケード建設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 24 つかだ電機 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 25 海野町ふれあいホールちょこっと この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成16年の新アーケード開設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 26 うえしん海野町支店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-13 27 上田蚕種協業組合事務棟 上田市にある蚕種の象徴的な木造二階建て建築。
登録有形文化財(建造物)
上田蚕種協業組合は、1916年上田蚕種株式会社として設立したのが始まり。主要な建物が翌6年に完成。その後、昭和45年から現在の社名となっている。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。
このような建物からのみで22万箱もの量の蚕種が製造されていたことから、その技術高さが感じられる。 2022-02-09 28 おいだれ焼き鳥の歴史 画像:焼き鳥 鳥正 さん 以下より拝借
https://tabelog.com/nagano/A2004/A200401/20000407/
昭和30年代の高度経済成長期
上田市も活気に溢れるなか、多くの人々が家路につく前の時間を焼き鳥店で過ごしていた。
需要に合わせて焼き鳥店が増える中、上田市の焼き鳥店「鳥正」の初代店主である宮下正三氏が、焼き鳥の新しい食べ方を考案した。焼き鳥にニンニク醤油だれをかけて食べるという方法を、仲間と相談しながら作り上げたといわれてる。
瞬く間にこの食べ方が広まり、今のおいだれ焼き鳥となった。
引用元:https://oidareyakitori.jp/ 2022-02-09 29 上田紬について③ 上田紬が高級品になった背景
終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。
などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特 2022-02-09 30 呉の歴史~昔と現在の比較2~ 現在は、「マリンジャパンユナイテッド呉造船所」となり、大型船舶の建造を行っている。また、2005年には、呉市が後世に技術を伝えるために、「呉市海事歴史科学館」、通称「大和ミュージアム」を開館した。現在では、多くの観光客が訪れる人気観光スポットになっている。
出典:「海軍とともに発展した呉の街」
https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html 2022-02-09 31 呉市の歴史~昔と現在の比較2~ これは、「呉海軍工廠」の様子。1889年に「呉鎮守府」が設置されるとそのもとに、「造船部」が置かれた。1903年に組織され、「呉海軍工廠」が誕生。東洋一の設備を誇り、ドイツの「クルップ」とならび、「世界の二大兵器工場」と称されるようになる。巨大戦艦「大和」、戦艦「長門」、航空母艦「赤城」などの海軍を代表する戦艦を数多く建造した。
出典:「海軍とともに発展した呉の街」
https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/p07.html 2022-02-09 32 なにを飼うの!? 養狸の将来性と品種の選択について(『西塩田時報』第184号(1939年3月1日)2頁) 現在ではペットとして犬や猫などが主流である。ただこの記事では狸の飼育の重要性が書かれている。少しフォルムとしては犬に近いかもしれないが現代だったらとても違和感がある。
自分で飼うペットはかわいいが、人さまに迷惑のかからないように。くれぐれも飼っている方はご注意を。
出典元:
『西塩田時報』第184号(1939年3月1日)2頁 2022-02-09 33 プロジェクト研究発表①~⑬と各アウトカム(前川ゼミ2021) 長野大学前川ゼミ(企業情報学部科目「プロジェクト研究」)
オンライン発表会 2022/01/31ゼミ時間帯に実施
発表①~⑬+講評
▼2・3年生
★ プロ研6「海野町レトロ写真館」 (発表者:足立光紅 )
★ プロ研7「西部地域の地域づくりに向けた支援」 (発表者:飯髙綾 )
★ プロ研8「大洗型地域振興事業推進仮想モデルの作成」 (発表者:高山大和 )
★ プロ研9「山本鼎の部屋資料のデジタ 2022-02-09 34 2 文明開化 この時代は西洋の文化が日本に浸透し始め、現代につながる様々な変化が生じた時代です。
食や服飾、建築などの文化において西洋の要素を取り入れ、模倣し、日本のものを取り入れるなどをして洋風に変わっていきました。
服装に関しては軍人や役人、上流階級の人の間には制服や礼服として早くから洋服が広まっていきました。庶民の間では着物が一般的であり、外で洋服を着ている男性も家では和服に着替える等の例もあったそうですが、髪型は明治に入り大きく変わりました。「散髪令」によってちょんまげを切ることが強制されました。男性は誰もが洋風の短髪になり、それに合わせて山高帽などの帽子も流行るようになりました。
女性は明治に入っても着物に日本髪が主流でしたが、化学染料を使った染物や西洋風の模様が取り入れられ、 2022-02-08 35 プロ研⑧高山大和「大洗型地域振興事業推進仮想モデルの作成」(前川ゼミ2021) 発表者のマイサイト(プロジェクト研究のアウトカム)
発表者(学生):高山大和(長野大学企業情報学部3年)
(ゼミ担当:前川道博@長野大学企業情報学部)2022-02-08 36 プロ研④和田彗「長野地域資料」(前川ゼミ2021) VIDEO 9分
▲クリック/タップして発表動画をご覧ください。
発表:2022/01/31 オンライン発表
発表者のマイサイト(プロジェクト研究のアウトカム)
発表者(学生):和田彗さとし (長野大学企業情報学部4年)
(ゼミ担当:前川道博@長野大学企業情報学部)2022-02-08 37 第二次世界大戦以後の上田紬 第二次世界大戦以後の上田紬
終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。
などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有 2022-02-08 38 老中としての松平忠固 出典:横浜美術館「コレクション紹介」https://yokohama.art.museum/collection/collection.html
忠固は、すでに日米和親条約の頃から閣内で交易通商論を唱えており、ペリーとの条約交渉の当初から交易通商を条約に含めようとしていた。そこに立ちふさがったのが徳川御三家の水戸の前藩主で、尊王攘夷思想の震源徳川斉昭である。日米和親条約調印の翌年、斉昭によって失脚に追い込まれたもののハリスとの通商条約交渉に際して忠固は老中に復帰し、井伊直弼の調印には勅許を必要とするとの訴えを押し切って調印を断行した。その後責任を負い失脚した。
以上の老中としての行動からは、忠固の信念強さがうかがえる。 2022-02-08 39 松平忠固とは 松平忠固(1812年~1859年)は上田藩の第6代藩主(上田城主に直すと真田昌幸から数えて11代目)で、日米和親条約と日米修好通商条約の調印時に老中を務めた人物である。最初の老中就任時は「忠優(ただます)」という名で、二度目の時は「忠固(ただかた)」に改名している。
忠固は終始一貫して開国と交易を主張し、徳川斉昭や井伊直弼と対立しながらも二つの条約の調印を断行した。その一方で、養蚕業を推進して海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。 2022-02-08 40 第二次世界大戦以後の上田紬 終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。
などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有の風合や柄模様にもあったが 2022-02-08 41 上田蚕種協業組合事務棟 大正5年地元の蚕糸業の関係者たちによって設立したのが上田蚕種株式会社だった。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となった。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。この場所は養蚕業を支えた歴史ある建物。
「参考文献」
https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot25.html 2022-02-08 42 越屋根 越屋根という二階建ての建物があり、これは蚕を育てていたいという特色である。越屋根は換気や光を取り込むために作られた。蚕糸業が盛んだった上塩尻、下塩尻、秋和にはこの越屋根の建物が、多く残っている。その地域が蚕を育てていたという特徴が見て分かるので見つけてみると面白いかもしれない。
「参考文献」https://d-commons.net/uedagaku/detail.php?c=17&p=4661
https://ueda-navi.jp/hokkoku-kaido/spot/public/992 2022-02-08 43 アルファ この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-08 44 いも平 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-08 45 キクチ洋装店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-08 46 銀座食堂 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-08 47 上田紬が庶民的なものから高級品になるまで~戦後以降~ 第二次世界大戦以後の上田紬
終戦後、まだ衣類が欠乏していた頃、商工省は京都のコブラン機とともに上田紬など数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。
などの数種を、技術保存織物として自由商品に指定した。農家の家内生産によって、ほそぼそ自家用を織りだす程度であって、絹紬が機業として再開していく機会が、なかなか熟さないでいた。このとき昭和24~5年頃から、神科出身で元蒙古自治政府最高顧問をされた故金井章次氏は、軍放出の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱、農村副業による手織りのなかから紬織りの再興を考えた。草木染の紬織りを現代に生かそうと苦心をされる一方、草木染料や媒染材の化学研究をされて、生産量の増大や、新販路の開拓のことに努力をはらわれた。江戸時代からの上田縞・上田紬の名声は、特有 2022-02-08 48 海野町ふれあいサロン この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目は平成16年の新アーケード開設後、二枚目は平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-08 49 堀内紙店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-07 50 仲よし衣裳店 この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。
一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。 2022-02-07 51 別所線存続運動 令和元年台風19号に伴う千曲川左岸堤防の欠損により、令和元年10月13日早朝に上田電鉄別所線千曲川橋梁が崩落しました。これは上田別所線を存続するために、ふるさと寄付金を募るためのモノだ。地元の人々に愛されているのが分かる。 2022-02-07 52 電化~国営化 昭和2年に富士―身延間、昭和3年には身延―甲府間の全面開通と同時に電化が完了した。この電化により、汽車運行時より約半分の時間で運行できるようになり、2年の間に旅客人数、旅客収入がともに2倍以上になり利用者が電化をどれだけ待ちわびていたかが分かる。
しかし、その後の会社経営は良好でなかった。その主な理由として、沿線の集落人口が多くなかったこと、身延参詣の乗客が予想以上に増加しなかったこと、工事など建設、設備費への投資によって運賃を上げてしまったことが上げられる。それだけでなく東海道線と中央線の接続線としての利用客が予想以上に多くなかったこと、山間部の土砂崩れや暴風雨による線路の補修工事による出費が重なったこと、そして世界恐慌により貨物輸送が伸び悩んだこと、これらの状況が重なっ 2022-02-06 53 上田市「別所線応援プロジェクト」 令和元年台風19号に伴う千曲川欠損により、令和元年10月13日早朝に上田電鉄別所線千曲川橋梁が崩落した。そこでこのプロジェクトを始めると、上田電鉄別所線に対し上田市内外から数多くの鉄道ファンの方々から寄付が集まったそう。
[参考文献・写真]
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/besshosen/14543.html 2022-02-06 54 1路線だけ生き残った鉄路 長野県上田盆地には始め五つの路線が張り巡らされていた。車社会の進展にともない昭和40年代までに次々と廃止となったが、唯一残ったのが別所線であったという。
しかし、昭和48年、輸送人員の減少を理由に上田交通が廃線を表明した時があった。沿線住民による存続運動が起こり、翌49年、国と県による鉄道軌道欠損補助の公的支援とともに、上田市が3年間の補助金を交付することで、別所線存続が決まった。3年後の昭和52年にも、沿線住民により存続運動が行われたが、この時点では上田交通の営業努力で赤字幅が減少していたため、廃線を免れている。
[参考文献]
https://www.mintetsu.or.jp/association/mintetsu/pdf/63_p26_27.pdf
[写真]
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/besshosen/5563.html 2022-02-06 55 4.蚕糸業が衰退している原因 江戸時代から明治時代まで信州上田を支えてきた蚕糸業はなぜここまで衰退してしまったのでしょうか。
衰退した原因は幾つもあるので紹介していきます
原因①和装の需要が低下
日本は古くから和装が常識でした。特に江戸時代から明治時代は和装の市場も大きく、それに伴って原料である生糸はとても需要がありました。
しかし、明治時代を越えると次第に洋服の需要が増えていき、和服の需要は一気に低下しました。和服の低下と共に蚕糸業も衰退していきました。
原因②海外の生糸を輸入※絹糸・・生糸を加工した糸
日本が近代化していくにつれ、海外、特に東南アジアで大量生産された安い生糸を加工し、絹糸にする方が国内の蚕糸を使うよりも安く大量に仕入れられるため、海外の生糸の方が需要が高くなってしまいました。
そ 2022-02-03 56 サントミューゼができる前 サントミューゼは、昭和24~56に操業していたたばこ産業(株)の上田工場(JT)跡地だそうだ。JTから工場跡地の活用を上田市に打診し、再開発が行われ公共ゾーンとして建てられたのがサントミューゼだ。また、JT以前、上田が蚕都として栄えていた頃は金紡の上田工場だったらしい。上田市マルチメディア情報センターのYouTubeでは、当時の様子を見ることができる。工場で働く女性の姿、彼女らが広場でダンスする様子、少し映り込んだ上田城などが映像で記録してあった。 2022-02-02 57 松川村の人口計画について 松川村の人口の将来展望は令和42年で9500人であり若者の定住や福祉充実に重きをおいている。また、出生率や純移動率の増加も目指しており、移住支援金に年齢の制限などがあったと考えられる。 2022-02-02 58 上田市の人口計画について 上田市の人口の将来展望は令和47年12万人であり
前の記事で触れた移住支援金についても基本目標1の⑤や基本目標の3の③が関わっていると考えられる。 2022-02-02 59 6 松根油の生産について 画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載
http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg
年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。
興味を感じた理由は下記の二つである。
①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。
②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。
村誌内の記述
下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。
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松根油
昭和20年に入ると、松根 2022-01-29 60 5 数字からひもとく 昭和16年 関東軍特別大演習
→兵力約70万が動員(wikipediaより)
→坂井村からは予備役・後備役補充兵役の16名が召集。軍服ではなく作業衣や浴衣を着て部隊に集合せよという状態であった。(村誌より)
日支事変以来の大戦での坂井村の戦没犠牲者 108名(村誌より)
→昭和22年の臨時国勢調査による統計によると、昭和21年の坂井村総人口は2,998人
→正確な数字ではないが、人口のおよそ3%が戦争によって命を落とした 2022-01-29 61 8 参考文献等 ・坂井村誌(坂井村・平成四年三月三十日)
・Wikipedia「坂井村(長野県)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E6%9D%91_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)
(2022年1月29日最終閲覧)
・パラパラ地図長野県(2005年10月1日)http://mujina.sakura.ne.jp/history/20/index2.html
(2022年1月29日最終閲覧)
・まんが日本昔ばなしデータベース「うばすて山」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=28
(2022年1月29日最終閲覧)
・コトバンク「国民精神総動員運動」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%B7%8F%E5%8B%95%E5%93%A1%E9%81%8B%E5%8B%95-64263
(2022年1月29日最終閲覧)
・e-Stat「国勢調査 / 昭和22年臨時国勢調査 / 全国都道府県郡市区町村別人口(確定数)」
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001036870&cycle=0&tclass1=000001037104&stat_infid=0000079145 2022-01-29 62 4 年表からひもとく 坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。
昭和12年(1937年)
・盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。
・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。
・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。
⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員 2022-01-29 63 2 探求にあたり ・今回の探求では日中戦争から太平洋戦争にかけて(昭和12年ころ~昭和20年)を対象として調査する
・主な資料として「坂井村誌」を参考文献とする
・はじめに年表から紐解いていき、特に気になった点について深堀していきたい 2022-01-29 64 美味だれ焼き鳥の歴史 日本が高度経済成長期だった昭和30年代、上田市の産業も大きく発展していました。まちは働く人たちで活気にあふれ、その活気は仕事終わりの時間も収まることはありませんでした。そんな活気ある時代、上田では多くの人が家路に着く前の時間を焼き鳥店で過ごしていました。そして、家で待つ家族のためにその焼き鳥をお土産に持ち帰るというのも日常的な風景のひとつでした。
需要とあわせて焼鳥店の数も次第に増えるなか、鳥正の初代店主である宮下正三氏が、焼き鳥の新しい食べ方を考案。焼き鳥にニンニク醤油だれをかけて食べるという方法を、仲間と相談しながら作り上げたといわれています。その食べ方は見る見るうちに上田中に広がり、新しく店を出す人々も、タレの味を覚えるために修行に入ったり、味を盗むために通い詰めたり 2022-01-28 65 じまんやきの歴史と比較 引用 「あんこ」と「カスタードクリーム」どちらがお好き?「じまんやき」の「富士アイス」 ~上田市海野町商店街6~
https://blog.nagano-ken.jp/wp/josho/wp-content/uploads/2015/09/20fuji2.jpg
じまんやきは上田市のソウルフードの1つになっている。
じまんやきは海野町商店街の一角の富士アイスで売られている。じまんやきを作っている富士アイスの本店は山梨県甲府市に本店を置いている。富士アイス上田店は昭和10年に開業し、長野県で一番古参の店になっている。富士アイスは創業当初は富士屋という店名だった。富士アイスの富士は日本一の山を自慢している富士山に由来する。
次にじまんやきについて解説します。じまんやきは「自慢の味。自慢したくなる味。」から由来しています。
じまんやきは1個80円とリーズナブルな価格であり、太鼓上に 2022-01-27 66 スポーツ欄(『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)4頁) 地域の野球・卓球の体育祭典のリザルトを掲示した記事。
戦前ではスポーツをやる余裕など無かっただろうと思うが、こうして大会が開けるまでに平和が戻ってきたということを表す、微笑ましい記事だと感じた。 2022-01-27 67 上田電鉄株式会社の沿革 ・大正5年9月17日 丸子鉄道株式会社 設立
・大正9年1月5日 上田温泉軌道株式会社 設立
・昭和14年8月30日 商号変更 上田電鉄株式会社
・昭和18年10月21日 丸子鉄道株式会社と上田電鉄株式会社合併(商号 上田丸子電鉄株式会社)
・昭和44年5月31日 上田丸子電鉄株式会社を上田交通株式会社に商号変更
・昭和47年6年30日 城下駅を無人化
・昭和47年7月7日 中塩田駅を無人化
・昭和61年9月30日 上田原駅無人化
・平成17年10月3日 上田交通株式会社より分社 上田電鉄株式会社 設立
このように、上田電鉄株式会社は路線の縮小などにより会社規模を小さくしたり、子会社を合併したりと時代によって進化してきた。現在は東急グループの傘下に入っている。
[参考文献・写真]
上田電鉄株式会社ホームページ
https://www.uedadentetsu.com/ 2022-01-27 68 犬もヒトと同じ扱い!? ヒトだけが戦争に動因されるのではなく犬も戦争に協力させられてた!?
今でこそペットというイメージが強いが当時は軍犬になっていた…
ヒトだけでなく犬も戦争には散々…
参考文献:https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf
写真4-2 勝つために犬の特別攻撃隊を!と呼びかける隣組回報
昭和19年11月 八王子市郷土資料館提供 2022-01-26 69 温泉の歴史 別所温泉は1400年続く信州最古の温泉と言われており、歴史で確認できるのは825年(天長2)からで、人々の旅の疲れを癒やす憩いの場として各地に知られるようになったと考えられています。
1547(天文17) 大湯普請
1622(元和8) 大湯・玄斎湯・お茶屋が藩主湯治利用施設となる。
(湯治とは温泉宿に長期滞在して病気治療を行うこと)
1881(明治1) 年間宿泊・入浴客が2万2千2百人
1902(明治35) 別所温泉事務所開設。
1933(昭和8) 別所温泉協会創立。
1960(昭和32) 大湯改装工事
2008(平成20) 旧あいそめの湯が3月30日で撤退。
新あいそめの湯5月2日より開館営業。
2012(平成24) 足湯大湯薬師の湯完成。
そして別所温泉とその周辺には多くの「国宝」「重要文化財」級の文化遺産が残され、文化財の宝庫として全国 2022-01-26 70 ため池の数 塩田平のため池数は、個人利用の小池まで含めると200余りあり、これらが拡大または新たに構築されたことで、しだいに大規模な池に統合された。
昭和50年代の「溜池施設台帳」には、東塩田112、富士山5、中塩田10、西塩田10、別所1の141池が登録されている。
塩田は地元よりもため池が多い印象だったが、141ものため池があるのは予想外だった。雨量の少ない地域であるため、多くのため池が塩田の農業には必要なのだろう。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php 2022-01-26 71 上田映劇の歴史 昭和まで 1917年に末広座跡に上田劇場が開館した。
当時は芝居、落語、講談、浪曲、歌謡などが催された。
上田劇場の前身となるのは末広座だが、末広座の開館日は不明である。
しかし、1912年の上田町地図に末広座、中村座が載っているとのことから
1912年以前に開館されていたと思われる。
1922年に発行された「上田市街明細図」に上田劇場、上田電機館、中村座が載っている。
1919年に「上田演芸館」というのも開館されたとされているが
詳しい場所の情報が無いため、上田市街明細図から探し出すことが困難だった。
昭和初期(1926~1932?)頃に上映するものを映画中心とし、
上田映画劇場と名称を変更。
1960年代後半 映画の人気がピークに至る。
1964年 桟敷(さじき)席から現在の椅子席(270席)に改築された。
映画館の話題から少 2022-01-26 72 信州大学繊維学部資料館(旧貯文繭庫) 信州大学繊維学部の母体である官立上田蚕糸専門学校は、日本が工業立国として台頭しようとした明治43年(1910年)に、蚕糸に関する初の口頭教育機関、また、長野県初の国立学校として設立された。そのあと、繊維科学技術全般にわたる高等教育機関に発展し、昭和24年」(1949年)の学制改革により信州大学繊維学部として現在に至っている。 2023-05-01 73 北向観音 別所温泉駅から温泉街を登っていくと左手に現れる北向観音です。本堂が北を向いているというのは全国的にも珍しいとされています。現世利益を願う北向観音と、未来往生を願う長野市の善光寺の両方に参拝するとさらに良いとされています。
本堂へ向かう道の石畳や和傘が和の雰囲気を醸しだしており、紬で歩けば気分が上がること間違いなしです。 2022-01-26 74 丸、環、〇、円形、輪、和が魅力 サントミューゼは上から見た時に丸みを強く感じるなぁと、施設案内板や広場のベンチを見て考えた。端にいても、その逆端にいる人が見えるデザインだと思った。ベンチに複数人で座って話していても、全員お互いの顔が見える。交流にもってこいの形状だ。 2022-01-26 75 サントミューゼは散歩にも最適 外周してみて感じたのは、サントミューゼは敷地が広く、施設まわりのアプローチも整備されているので、グルっと一周するだけでもいい散歩になるということだ。実際、犬を連れて散歩する人をよく見かけた。
また、駐車場の方へ行くと川沿いの歩道に上がることができるスロープがある。川沿いの道へでると、千曲川と山々、住宅、不思議と調和する上田市の街並みが見られる。夕方に行くと夕日も見れるのでオススメだ。
そして、スロープを上る途中、サントミューゼ越しに雪を被った山が見えた。サントミューゼがその自然の景色を邪魔をしていないことに驚いた。 2022-01-26 76 「木」が印象的な建物 少し離れてサントミューゼを見た時に、木がたくさん使われていると感じた。サントミューゼ自体もそうなのだが、外にあるトイレや倉庫も木材が使われていた。前回、館内を見て回った時も同じようなことを感じたのを思い出した。
近くで見ると白い木材はコンクリートだった。木材の板とコンクリートの板が混合していたのだ。コンクリートについている細かい筋が木目調に感じさせるのか、不思議と木材と調和している。 2022-01-26 77 比較から見る上田市工業の強み 上田市の隣には、機械・金属工業の中小企業を中心とし、優れた技術力を持つ坂城町がある。工業の分野が似ている両市町には、どのような違いがあるのか。
今回は坂城町と上田市それぞれの工業統計調査を参考にし、それらを比較するための指標として、平成30年における両市町の[①事業所数②従業者数③製造品出荷額④現金給与総額]四つを用いてみた。
《上田》 《坂城》
① 390事業所数 204事業所数
② 18890人 6068人
③ 52,667,396万円 22,748,130万円
④ 9,066,947万円 2,874,596万円
上記からもわかるように、精密機器や機械・金属という主要製品が同じでも、上田の方が製造品出荷額と現金給与総額が高い。これは事業所数・従業者数が上田の方が多いことに加え、大企業の工場を有していたり 2022-01-25 78 美味だれを深く掘り下げる。 すりおろしたニンニクが入った醤油ベースのたれに焼き鳥をつけたり、焼き鳥にたれをかけたりして食べるものである。昭和30年代に、上田市内の焼き鳥店で考案され、市内の家庭や店舗に広まったとされる。さらに、たれにすりおろしたリンゴが加えられるなど、店舗ごとに個性的な味が生まれていった。 2022-01-25 79 上田工業の歴史 ①蚕のまち上田
江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県経済は蚕糸業に支えられていた。上田はそんな長野県中でもいわゆる「蚕都」として名をはせていた。その要因としては、扇状地や河岸段丘の発達により桑の栽培適地であったこと。また、雨が少なく乾燥した気候が蚕の飼育に適していたこと。そして全国にさきがけて開校された、小県蚕業学校(現在の上田東高校)や上田蚕糸専門学校(現在の信大繊維学部)などによる蚕業教育が充実していたことが挙げられる。
②精密機械工業へのシフト
長野県が戦前から養蚕・製糸業に代えて精密機械工業へと産業育成の重点をうつし、かつ終戦後の1960年代には高度経済成長で商工業が発展したこともあり、上田の蚕糸業(養蚕、蚕種、製糸)も例外なく衰退を迎えた。しかし蚕糸業で培われた技術的 2022-01-25 80 上田藩の死者数、正福寺の千人塚 千曲川流域には、「戌の満水」の流死者供養塔が幾つも残されている。それには2種類ある。一つは、多くの犠牲者を出した現地に建てられたもの、もう一つはたくさんの流死者が流れ着いて埋葬された場所に建てられたものだ。千曲川の上流では、上畑村(佐久穂町・248人)小諸城下(小諸市・507人)所沢川流域の金井村(東御市・130人)田中宿・常田村(東御市・68人)などで多くの流死者を出した。そして、まず大量に流れ着いたのが、上田だった。
「千曲川も上田まで来ると、流れが緩やかになる。上流から流されてきた死体が上田に流れ着いた。上田藩主の命令で段丘上の秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して、後に碑を建てた。それが千人塚と呼ばれている。また正福寺境内には石造地蔵尊があり、縁者がたくさん亡くなっ 2022-01-24 81 戌の満水とは 長野県千曲川流域の歴史的な洪水として、仁和4(888)年の洪水、弘化4(1874)年の善行寺地震の後の洪水がよく知られている。ところが、寛保2(1742)年の洪水「戌の満水」は、全国的にも近世以降最大の水害と呼ばれているのに知らない方が多い。
その理由の一つとして、昭和16(1941)年に連続堤防が完成、大きな水害が激減し流域住民の洪水への恐れ、関心が急激に薄れてきていることが挙げられる。しかし、寛保の洪水が「未曽有の水害」「前代未聞の水害」といった表現のまま、流死者など具体的な被害実態が集計されてこなかったため、訴える力が弱かったこともある。
流死者は2800人前後に達することが明らかになり、長野県内で被害が大きかった「三六災害」の死者は107人、不明が29人である。現在の 2022-01-24 82 金具屋 こちらの宿はあの千と千尋の神隠しのモデルともなったとされている温泉旅館である。前身が鍛冶屋であったことから「金具屋」と名付けられた。なかでも有名なのが登録有形文化財に指定されている「斉月楼」。昭和11年に完成した木造4階建ての建物で、釘をほとんど使用せずに気の組み合わせによりつくられて、現在も客間として利用されている。また、そこにある大広間も登録有形文化財に指定されており、館内はとても歴史を感じるような重厚感ある造りとなっており、一度は泊まってみたい宿といえるだろう。 2022-01-23 83 平和観音(世界平和聖観世音菩薩) 112段の石段の先に平和観音と呼ばれる重さ約22t、全長約25mにも及ぶ銅像がある。雪のなかということもあり、石段が滑り大変だった。昭和39年に完成し、金属製の観音像としては東洋最高らしい。実はこの像は2代目で、昭和初期に33mの「聖観音菩薩」が建立されたが、戦争のため台座を残して解体されてしまったという。下から見上げる平和観音は写真では伝わりきらない迫力なので、是非実際に訪れ体感していただきたい。
また、境内から上につながる階段を上ると、地震除け、金運をもたらす石仏として信仰されている「弥勒石仏」(みろくせきぶつ)があった。こちらも雪がたくさん積もっており大変で、石仏は猿がいたずらをすることから扉が閉ざされていた。 2022-01-23 84 梅翁寺 このお寺は湯田中温泉の守護発展のために、1688年に薬師如来を本尊として別峯宗見(べっぽうそうけん)和尚様が来られて建てられた。境内にある手水舎(ちょうず)は龍をもした彫刻であり、その口からは温泉が流れる。
また平成22年5月8日に全国初となるお湯につかるお地蔵さん「延命湯けぶり地蔵尊」が建てられた。大きさは1メートルほどで、片足だけお湯につかることで温泉の持つ霊力を吸収しているとされておる。そのお地蔵さんの肩や腰などを湯に浸した白布でさすることによって温泉の持つ効用が伝わり、ぴんぴん・しゃんしゃんと元気になるとされるぴんしゃん地蔵手拭いと呼ばれる参拝が行われている。 2022-01-23 85 湯田中駅周辺~楓の館・楓の湯~ 楓の館は昭和2年4月28日に開業した旧湯田中駅舎をリニューアルしたものである。
旧湯田中駅舎は志賀高原につなんだ山小屋風で、当時としてはとてもモダンで大変人気であった。
現在は駅舎としては利用されておらず、交流室や展示室として利用されている。
国土の歴史的景観に寄与しているとして、昭和2年に有形文化財に登録された。
この旧駅舎に楓の湯と呼ばれる温泉が隣接している。大人は300円で入湯できる。
またその旧駅舎前には無料で解放されている足湯がある。筆者は保育園の頃遠足で訪れ入った記憶がある。 2022-01-23 86 上塩尻蚕種製造民家群、歴史資料の保全活用に関する課題 全国一の蚕種製造地であった塩尻地区(上塩尻、下塩尻、秋和)には蚕種製造民家が数多く残されている。過去に塩尻地区の蚕室民家の実態調査とその活用に向けた検討がなされた経緯があるが、その後、具体的な対策が講じられることなく現在に至っている。とりわけ上塩尻については、蚕種製造民家群の歴史的景観、文化財・産業遺産としての各民家を保全・活用の観点から再調査し、具体的な保全活用に向けた検討を進める対策が必要である。
以上の観点から以下の課題について簡略ながら報告をした。
(1)蚕種製造民家群の保全活用
(2)歴史資料の保全活用
(3)上塩尻歴史文化の次世代への継承 2022-01-18 87 信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録3 Map作成活動
いよいよMap作成活動にとりくむ。地域の魅力を伝えるためにどんなMapが良いか企画を練るうち、温泉センターで昔の観光地図を発見。レトロなカッコよさに感銘を受け、和テイストで斬新な絵地図を作成する方向性に決定!!
500年続く雨乞い祭りで夫神岳山頂に祀られる龗(おかみ)の文字や九頭竜大権現をモチーフにすることで、里山の自然に畏敬の念を抱く昔の人の精神性や、現代の日本遺産「龍といきるまち」を表現できるという意見があり、龍を中心にMapを作成することにした。すごく斬新でカッコイイ、他にはないMapができるとワクワク。
龍が守る里、これを見て、「過疎だから移住してきて」で゜はなく、なんだかカッコイイ奴らが里山にいるみたいだから行ってみよう、と若い世代に発信できるようなMapにしたい!と意気込 2022-01-14 88 山形のトーク番組『今日とは違う、世界がある。』 ▲PDF:『トーク番組 今日とは違う、世界がある。』
番組リスト 1997~2008年 第1回~第111回
レギュラー:吉村和文さん(当時はケーブルテレビ山形専務、現ダイバーシティメディア社長)
端山貢明さん(当時は東北芸術工科大学教授、後に名誉教授)
山形市のケーブルテレビ局「ケーブルテレビ山形」(現ダイバーシティメディア)が1997年から10年以上にわたり毎月当該番組を放送していました。吉村和文さんと端山貢明さんがレギュラー出演し、毎回多彩なゲストを迎えて地域課題について意見交換するという番組でした。
「現代社会と教育」「地方分権」「福祉と共生」など毎回硬派なテーマが取り上げられました。端山貢明さんは第1回(1997年9月)以来、1回も欠かすことなく第111回(2008年5月)まで連続出演し、毎回、コメンテートをしまし 2022-01-08 89 信州上田学・地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録2 信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。
塩田平・別所温泉地区を中心に、上田市は、「レイラインがつなぐ太陽と大地の聖地〜龍と生きるまち」として、日本遺産になっています。学生たちも龗や九頭竜大権現を祀る男神岳、女神岳に抱かれた民話や雨乞い祭り、文化財について学びました。
今年の8月、10月には、ボランティアガイドの会など他の地域団体とも共同して、日本遺産に認定された塩田・別所地区の文化財についてレイラインの観点から方位や日 2022-01-05 90 信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクト活動記録1 信州上田学〜地域連携パートナー事業アグロフォレストリープロジェクトでは、長野大学地域づくり総合センターと(一社)信州上田里山文化推進協会が連携して、SATOYAMAイニシアチブにもとづずいて、古くから自然と調和していきてきた先人の知恵を伝承し、次世代の若者が地域資源を活用して自らの力で未来を開いていくための人づくり、地域づくりを行っています。今年のアグロフォレストリープロジェクトには、地域の若者、移住者とともに、長野大学の学生が29名(福祉学部4名、企業情報学部1名、環境ツーリズム学部24名)が参加し、若者の視点で見た里山の魅力を絵地図にしました。
持続可能な社会づくりに向けて、自然と調和してきた里山の暮らしを発信していく、SATOYAMAイニシアチブにもとづき、住んでいる人にはあたりまえすぎて気づかない魅 2022-01-05 91 忠魂碑(御影) 御影区内の成田山境内に建立されている。
昭和27年10月10日再建と刻まれている。
大正4年の『北佐久郡志』の第四編町村篇の南大井村の記述(152ページ)によるとここに再建される以前は和田にあったようである。
「九、兵事
〇忠魂碑 大字和田字北原甲州街道の北側にあり、砲弾形の石碑にして表面明治三十七八年戦役忠魂碑の題字は乃木大将の筆にして、明治四十一年四月の建設。」 2021-12-28 92 可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」 2022年1月に、可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」を以下の内容で作成しました。
2022年2月開催の「舌喰池水鳥観察会」やさまざまなイベント・活動で、この看板(看板の画面サイズ:横幅200cm×高さ100cm、看板の脚を含む高さ160cm)を活用する予定です。
■看板作成:
長野大学地域づくり総合センター「信州上田学」地域連携パートナー事業 舌喰池水鳥観察会
■監修:
長野大学環境ツーリズム学部 高橋一秋教授
■デザイン・鳥類データ(2016年~2021年に舌喰池で調査)・写真(塩田平ため池群で撮影)・イラスト ・解説(出典:原色 日本野鳥生態図鑑<水鳥編>(保育社)、山渓カラー名鑑 日本の野鳥(山と渓谷社)) :
高橋一秋・大和田樹里・三枝広樹・横内はるひ(写真加工)・小猿夏海(イラスト作成)・豊田雄基 2021-12-27 93 狛犬(鹿嶋神社) 鹿嶋神社の狛犬は東京市京橋區月の長谷川昌蔵氏が寄進し、昭和十八年五月に竣工したもの。 2021-12-23 94 上田の蚕種業 【上田の養蚕業】
江戸の末期から昭和にかけ、全国一の養蚕地帯でった長野県。特に上田地方は千曲川から広がる桑の栽培に適した地形と降水量の少ない養蚕に適した気候、そして蚕種の改良から日本一の蚕種製造地帯であった。中でも上田盆地は春蚕の生産地であり、松本盆地の夏秋蚕と対比されていた歴史がある。
【上田の蚕種の歴史】
-蚕種の始まり-
長野県では上田地方がいち早く、藤本善右衛門家によって1661年~1673年に蚕種製造がはじめらた。
上田地方の蚕種製造は
①奥州産蚕種を仕入れ販売(仕入種)
②奥州へ出向き蚕種製造(手作種)
③自家製造(地種)
と順を追って成長し全国に販路を広げていく。
-蚕種製造が盛んになった背景-
① 江戸時代、経済が発達による養蚕業や織物業の奨励
② 蚕種・養蚕・製糸の分業化
この 2021-12-22 95 可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」 2022年1月に、可動式看板「舌喰池で観察される鳥類」を以下の内容で作成しました。
2022年2月開催の「舌喰池水鳥観察会」やさまざまなイベント・活動で、この看板(看板の画面サイズ:横幅200cm×高さ100cm、看板の脚を含む高さ160cm)を活用する予定です。
■看板作成:
長野大学地域づくり総合センター「信州上田学」地域連携パートナー事業 舌喰池水鳥観察会
■監修:
長野大学環境ツーリズム学部 高橋一秋教授
■デザイン・鳥類データ(2016年~2021年に舌喰池で調査)・写真(塩田平ため池群で撮影)・イラスト ・解説(出典:原色 日本野鳥生態図鑑<水鳥編>(保育社)、山渓カラー名鑑 日本の野鳥(山と渓谷社)) :
高橋一秋・大和田樹里・三枝広樹・横内はるひ(写真加工)・小猿夏海(イラスト作成)・豊田 2021-12-21 96 上田城散策② 本丸東虎口 上田城後のシンボルとされ、昭和34年に長野県宝に指定されているという本丸東虎口。そう言われているだけあって迫力がすごかった。 2021-12-21 97 別所神社 熊野本宮大社の分霊のため、鎌倉時代(1190~1199年の間)に「熊野社」として建てられた。その後、天和2年(1682年)に現在の場所に転移建設され、明治11年(1878年)に「別所神社」に改称された。 2021-12-21 98 さわむら 上田市丸子にある和洋菓子店「さわむら」。先日、バナナマンの日村さんがロケで訪れ、長野県を代表する郷土食の一つである「おやき」を紹介していた。1つ140円で、1日なんと500個も売り上げるそうだ。
私はあんこと野沢菜の「おやき」を購入した。生地はびっくりするほどモチモチ、そして自家栽培の野沢菜を使用しているようで、塩味が程よく生地に合い、多くの人に愛されているのが納得できた。
完売するのが早いので、購入する方は開店してからすぐに来店してほしい。 2021-12-21 99 柳町 柳町が面する通りは北国街道といい参勤交代の大名や佐渡金山の金の通路、庶民の善光寺参りの参道として賑わったそう。
柳町のホームページによれば、真田信之が藩主になってからの『元和年間上田城図』には柳町の名前が掲載されているそうだ。(https://yanagimachi-ueda.jp/history) 2021-12-20 100 『農村女性のあり方』(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)2頁) 農村で働く女性の扱われ方、女性という立場の不自由さが赤裸々に述べられている。
これからの社会では、もっと「男女平等」を図っていかなければならないということを訴えかけており、令和の今でもよく取り上げられる問題が、戦後のこの時代から問題視されていたのだと思うと考え深い。 2021-12-14