信州上田学で触れた養蚕の歴史を掘り下げるため、常田館製糸場へ見学へ行きました。
道中、「蚕影町の由来」という看板を見つけ、思わぬところで蚕都の面影を感じることになりました。
上田駅から徒歩で10分弱。重要文化財として登録される常田館製糸場があります。
現笠原工業の構内に現存する15棟の製糸場時代の建物のうち7棟が重要文化財に指定されています。現在は、製糸業は終了し、他事業へ転換していますが、当時の建物を倉庫として使用されているようです。その為、予約なしで見学できるのは、「五階鉄筋繭倉庫」「三階繭倉庫」「五階繭倉庫」の三つの建物のみとなっていました。
入口付近、常田館製糸場の概要が書かれた看板には、
群馬県富岡製糸場は、「国営」の模範工場として「フランス式」の製糸が行われた。対して、常田館など、諏訪・岡谷では「民営」で「イタリー式」の製糸が行われた。
といったことが書かれています。
富岡製糸場など、群馬の製糸業と比較するのも面白いなと思いました。
左から、五階鉄筋繭倉庫・三階繭倉庫・五階繭倉庫。
三つの建物は、国指定重要文化財です。
木造の繭倉庫は国内随一の規模であり、鉄筋コンクリートの繭倉庫も当時の技術・知恵が残るものとして、貴重な遺産であるとされているそうです。
年間通して、均一な生糸の生産には「湿度・温度・風通し・乾燥・保管管理」など、大切なことがたくさんあるようです。これを管理しやすくする工夫が、建物の構造にあるのだと思いました。
「猫は蚕の神様です」と紹介されています。
養蚕が盛んであった昭和まで、「鼠」は蚕、さなぎ、繭をかじってしまうため、人々を悩ませてきたと言います。その鼠を駆除する目的で、猫を飼ったり、猫の神様を祀り良い繭を作ってくれるよう願ったとのことです。
五階鉄筋繭倉庫は、防火を重視した当時の技術が結集された物だと言います。干繭倉(繭を乾燥させて蛹を殺す過程)として建てられたものとされています。コンクリートを使用するなど、当時の技術を集結させているのだなと歴史を感じました。
三階繭倉庫・五階繭倉庫は木造であり、「多窓式繭乾燥」・保管のための倉庫として、建築されたそうです。窓をよく見ると、黒く塗り固めています。これは、製糸方法の変化に伴い、通風の確保を必要としなくなり、保管のみの目的にかわったことからこのような工夫がなされているのだそうです。
製糸業の盛んな時期にも、新しい技術や工夫が加えられて行ったことが分かりました。
私は県外から進学してきました。養蚕と聞いて思い浮かぶのは、やはり富岡製糸場でした。
しかし、信州上田学の講義の中で、上田の蚕都としての歴史に触れ、現代に残る歴史を広くアピールする必要があると思いました。
養蚕業全盛期から、衰退してからの長野県の主要産業への流れや、背景にある気候や地域性などをアピールすると良いのではないかと感じました。
常田館製糸場を見学し、当時の人々に養蚕が身近なものであり、工夫の詰まった産業であったことを学びました。
後世へ伝えていくには、このようなデジタルアーカイブは特に重要な役割を果たしていくように感じます。